日本大好き、昭和大好き。麦の子ブログ。

[昭和レトロ記事満載!!]生まれた日本、育った昭和の時代を見詰めた自分探しの旅へ。

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[昭和52年]謎の未確認動物・UMA「ネス湖のネッシー」の真実。

ネッシー

織田信長の居城・岐阜城が見下ろす川の流れは、長良川。
鵜飼いで有名な長良川を下流に下るとそこにUMAは存在します。
UMAとは、Unidentified Mysterious Animalの略で、一般には「謎の未確認動物」の事。
1986年(昭和61年)6月10日。川へ泳ぎに行った教員2人が、その長良川で
体長2mにも及ぶ、巨大なエイのような動物を目撃したと言います(汗)
地元、岐阜県羽島市の地名から「ハッシー」と呼ばれ、
地元の新聞で、ちょっとした話題になりましたね。
長く住んでいますが、謎が多いんですねぇ~(笑)

未確認動物の存在は、中世の海図に良く登場します。
船に纏わり付くクラーケンは大蛸。体長100mに及ぶシー・サーペントは、海蛇。
その真実は、分かりませんが、海には、航海を妨げる魔物が沢山棲んでいたようです。

そんな未確認動物が、1960年代・70年代に日本でブームとなります。
伝説や伝承の中にしか居ないと思われていた怪物たちが、
テレビや新聞から、目撃情報や物的情報として報道され始めたのです。

●ヒマラヤの雪男イエティ(Yeti)
●アメリカ・カナダのロッキー山脈棲む猿人、ビッグフット(bigfoot)
●南米の吸血UMA・チュパカブラ(Chupacabra)
は、誰でも、その名を耳にしたことでしょう。
日本では、昔から知られていた河童やツチノコが有名です。

UMAの代名詞と言えば、もちろんあの「ネス湖のネッシー」です。
1934年4月、早朝…とある外科医が、ネス湖で1枚の写真を撮ります。
その写真には、首長竜を思わせる長い首が、はっきりと写っていました。
ネッシーの代表的写真として知られたこの1枚の写真は、
これから先、何十年にも及ぶネッシー論争を巻き起こす事になります。


「ネッシー発見!!」と、題されたテレビ番組が放送されていましたねぇ~(汗)
結局、何が動いてそうなったのか、不自然な波を最後に見せられて
2時間、視聴者をぴっぱるテレビ局もどうかと思いますけど…ね(笑)

1977年(昭和52年)4月25日、午前10時40分。
「大洋漁業のトロール船・瑞洋丸が、謎の生物の死骸を引き揚げた!!」
と、大ニュースが飛び込んできました。
その腐乱した死骸の姿は、まさにネッシーそのものです。

ニューネッシーと呼ばれたその死骸は、その場で、海に廃棄されますが、
身体の一部が船員の機転で残され、科学者の手に委ねられる事になります。
調査の結果は、「ウバザメ」に近い生物であると…。
1993年11月。UMAの火付け役となった外科医の写真が、
捏造であったことを、その死の直前に告白して、世界に衝撃が走りました。

あああ~あの、踊らされたUMAブーム何だったんでしょうか?(汗)
真実と言うのは、寂しくて、残酷なものです。

科学者にとっては、真実を突き止めることが浪漫かもしれませんが…
庶民にとっては、謎は謎のままの方が浪漫のような気がします。


今、テレビのバラエティーを見ると…
「何?この謎の宇宙人?」と思えるようなタレントが、人気を博しています。

ふむふむ、UMAブームは、しっかり続いています(笑)

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| 1977年(昭和52年) | 17:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和52年]ママ、覚えていますか?あの帽子。人間の証明。

人間の証明

コンビニに行くと、ついつい買ってしまうのが「麦チョコ」です。
どこのコンビニでも必ずある、定番のお菓子ですね。

子供の頃、お菓子は職人が売りに来ていたのを覚えています。
ロバのパン屋も、本当にロバが屋台を牽いていました。
ポン菓子職人のオジサンが、大きな機械を牽いて近所にやってきました。
「かあちゃん~お米を頂戴!!」と、母親にねだります。
母親にお米を少量、袋に入れてもらい、オジサンに手間賃を渡すと
お米に圧力と熱をかけて、ポン菓子を作ってくれました。懐かしい思い出です。
ドカーン!!と、けたたましい轟音と共に、
何倍にも膨れたポン菓子を、たくさん食べましたよ(笑)
お米のポン菓子に、チョコを付けたのが「ライスチョコ」。
麦のポン菓子に、チョコを付けたのが「麦チョコ」。

麦と藁と言うのは、いやはや…
子供心を蘇らせる魔法のような組み合わせです。


…母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
…ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
…谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

詩人・西条八十の「ぼくの帽子」の一節が、
ある映画をきっかけに、日本中の誰もが知る事となりました。

1977年(昭和52年)10月。角川映画制作・第二弾「人間の証明」公開。
前年1976年に第一弾「犬神家の一族」が大ヒット。
映画が売れれば、本も売れる。出版と映画ががっちり組んだ、
新たな時代のメディアミックスでした。




戦後の日本は、「ギブミーチョコレート!!」に代表される
紳士的な進駐軍であるアメリカ兵の側面と
強姦暴行を加える、まさに鬼畜の所行の負の側面もありました。
「人間の証明」は、まさに負の側面が根底に流れています。

東洋人の顔を持つ黒人ジョニーが、母に会いにスラムから日本に来ます。
優しく迎えてくれると思っていたジュニー…。

mama, do you remember…(ママ、覚えていますか?)

しかし母にとってジョニーは、忌まわしい過去でした。
夢にまで見た母との再会を喜ぶジョニーに、母は、ナイフを突き立てます。
母の気持ちを知ったジョニーは、「ママにとって、僕は邪魔な存在なんだね」と
自らの手で…ナイフを胸の奥深くに刺します。
なんともやり切れない映画でした。

西条八十の詩「ぼくの帽子」は、こう続きます。

…母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
…母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね
…母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?

しきりに麦わら帽子を気にしています。
誰でも、きっと心の隅に無くした「麦わら帽子」を持っているはず…。


あの懐かしいポン菓子は、どこへ行ったんでしょうね?
「麦チョコ」を食べる度、大切な何か?を思い出したくなります(笑)


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| 1977年(昭和52年) | 19:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和52年]通算本塁打756本の世界新記録を樹立、王貞治。

756本本塁打

ON砲と呼ばれた王貞治や長嶋茂雄が大活躍する時代…、
石コロの転がる公園で…いや、空き地で
誰もが野球をし、バッターボックスに立つと一本足打法を真似しました。
漫画「巨人の星」の影響で、ピッチャーになると、
誰もが「大リーグボール!!」と叫んで、何の変哲もない直球を投げていました(笑)
野球…とりわけ、「巨人軍」が子供たちの憧れの時代でしたね。
しかし私は、野球の楽しさを知りつつもアンチ巨人軍です。


私が生まれた1961年、名監督と呼ばれた川上哲治が巨人の監督となります。
1965年から始まる怒濤の連勝街道は、1973年まで続き、
V9(ブイナイン)と呼ばれる、9年連続日本一の黄金時代を作りました。

父親は、大がいくつあっても足りないほどの巨人ファンです。
平日の夕飯タイムは、一家に一台しか無いテレビが、巨人の野球中継に変わります。
夕飯タイムですよ~。子供にしたら、その裏番組はアニメタイムです(泣)

強い者が圧倒的な強さで勝つ!!それが、父親の巨人ファンとしての理由です。
勝ち続ける限り、強くあればあるほど、観たいアニメは遠のいて行くんです。
私が、アンチ巨人軍になったのは、必然だったのかもしれません。


1974年(昭和49年)、中日ドラゴンズに優勝を阻まれ、V10を逃します。
1975年(昭和50年)、前年に引退した長嶋茂雄が、巨人軍の監督に就任。
中学生だったこの当時、夕飯タイムはバラエティー一色となりました。
「カックラキン大放送!!」・「欽ちゃんのドンとやってみよう!」を観て笑っていました。
この年の巨人は、球団史上初の最下位を経験するほど、負けが混んでいたんです。

CMになると父親は、野球中継にチャンネルを変え、得点経過を見ます。
負けていると、そのままチャンネルは元のバラエティーへ。
アンチ巨人だった私は、CMの度に、ちょこちょこチャンネルを変える父親を見て、
いじましいとさえ思いましたよ。(笑)
1976年(昭和51年)、巨人は、前年の最下位から一転して、
日本シリーズを逃すものの、リーグ優勝を果たします。
1977年(昭和52年)、2年連続のリーグ優勝。
9月3日。王貞治がハンク・アーロンを抜き、
通算本塁打756本の世界新記録を樹立。

父親の狂喜乱舞は、言うまでもありません。テレビにかじり付いていました。



756本…。その数字の重みは、巨人に関心の薄い私にはよく分かりません。
9月5日、王貞治は、初の国民栄誉賞受賞。
国民栄誉賞の目的は、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに
顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」と定義されています。

756本とは、讃えられるべき数字の重み。

翌年、当時人気絶頂のピンク・レディーが「サウスポー」を歌います。
社会現象となり「流行」を感じて、私もその重みの凄さを知りましたね。

756号本塁打を打った時、王貞治の両親が後楽園球場に招待されていました。
両親にカーネーションのプレートを渡す王貞治。
その姿に、球場のファンから「親孝行も日本一」の声が飛んでいました。

その後の巨人軍は、父親が求めた強い巨人ではなくなりました。
しかし、今もなお、父親は巨人を見詰め続けています。

もしかしたら…強いだけで巨人が好き!!…ではなく、
きっと、きっとですよ。父親は…
戦中戦後、「楽しみ」の希薄なその時代に、
巨人軍の野球を通して「楽しみ」を
教えてもらっていたのかもしれません。


子供の頃、石コロの転がる公園で野球をしました。
その時、父親は、欲しいと言わないのに、真新しいグローブを買ってくれました。
今思えば、野球をする事の楽しさを後押ししてくれたのは、父親だったんですね。
親孝行してないなぁ~(汗)

「親孝行も日本一」それこそ、讃えられるべき栄誉です。

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| 1977年(昭和52年) | 16:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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