日本大好き、昭和大好き。麦の子ブログ。

[昭和レトロ記事満載!!]生まれた日本、育った昭和の時代を見詰めた自分探しの旅へ。

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[昭和51年]乾くのは何?内山田洋とクール・ファイブ「東京砂漠」

東京砂漠

岐阜県には、海がありませんが、良質の水量をたたえる3本の川が流れています。
長良川・木曽川・揖斐川です。猛暑が続き、他県の水不足のニュースを聞きつつも、
その水量の恵みのお陰で、渇水と言う経験はありません。
水が、あることが当たり前のように、子供の頃、暮らしてましたね。

70年代後半に差し掛かる日本は、戦後の高度成長も一段落し、安定期に入ります。
1968年(昭和43年)には、西ドイツを抜いて、
GNPで世界第2位の国になっていました。

しかし、人口の多い日本にとっては、世界第2位の数字も、実感は薄かったと思いますが、
敗戦後の混迷と低迷を思えば、幸せですよね(笑)

1973年(昭和48年)から、田中角栄が打ち上げた日本列島改造ブーム。
生活に便利な商品や娯楽を、どんどん手にするようになりました。
しかし…物質を謳歌する日本人は、
どこか背伸びをしすぎていたかもしれません。
何か?大切なモノを忘れかけ始めていました。

翌年、1974年、オイルショックの影響で物価指数は23%上昇。異常な高騰を見せます。
しかし、物欲や娯楽を作り出し、提供し続ける事は、経済の本質です。

物質の大切さは分かっていますが、物質には、常に影は付きもの…
豊かさの象徴と言われた自動車の影は…毎年1万が死亡する「交通戦争」へ。
学力が向上する影で、若者のやり切れなさは、バイクによる暴走族の台頭へ。
夢の海外旅行の影で、日本人男性によるアジア諸国への買春旅行へ。
そして、物質経済の象徴、東京の影は…



1976年(昭和51年)5月。内山田洋とクール・ファイブ「東京砂漠」発売。
「欽ちゃんのドンとやってみよう!」で、とぼけた笑いを振りまいていた前川清さんを、
小さな子供たちは、きっとコメディアンと思っていたでしょうね(汗)
前川清さんは演歌歌手です。ニューミュージックの台頭で
廃れつつある演歌歌謡の中、この曲のヒットは、奇跡だったかもしれません。

「東京砂漠」とは、元々1964年(昭和39年)に発生した
東京大渇水の際に生まれた言葉です。
明治14年以来という猛暑を記録し、空前の水不足となりました。
約3か月続いたその状態を「東京砂漠」と表現したわけです。

…空が哭(な)いてる、煤(すす)け汚されて
…ひとはやさしさを、どこに棄(す)ててきたの

…だけどわたしは、好きよこの都会(まち)が
…肩を寄せあえる、あなた、あなたがいる
…あなたの傍で、ああ、暮らせるならば
…つらくはないわ、この東京砂漠

「東京砂漠」は…物質に取り憑かれ、人間関係の希薄さを感じつつ…
困難に満ちた東京で、出会った男女の愛を表現しました。
忘れかけていた何かを思い起こさせて、ヒットしたのかもしれません。

あって当たり前と、軽く思った水は、
無ければ、命に関わる大切な水でした。


3年後、1979年(昭和54年)5月の総理府「国民生活に関する世論調査」で、
「まだまだ、物質的な面で生活を豊かにすることに重きをおきたい」…40.3%
「物質的にある程度豊かになったので、これからは心の豊かさや
ゆとりのある生活をすることに重きをおきたい」…40.9%
物の豊かさよりも、心の豊かさが大事と、初めて統計上を上回りました。

水のように、潤いのある心を大切にしたいですね。

「日本の心」と言われた演歌ですが、歳をとると、何故かしっくりきます~(照)

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| 1976年(昭和51年) | 15:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和51年]浜田省吾「もうひとつの土曜日」。漢の条件とは?

浜田省吾

職場のある大垣市を少し東に車を走らせれば、関ヶ原町-。
そうです。あの徳川家康vs石田三成が戦った「天下分け目の関ヶ原」です。
「勝者=正義」。敗戦の将とは悲しいかな、勝者から悪評の的となり、
弱者のレッテルを貼られるモノです。
1600年10月。三成の西軍は、敗れます。
西軍の大将・石田三成は、本当に弱き者だったのでしょうか?
20万石の大名が、250万石の家康に立ち向かう姿が、弱き者の姿でしょうか?



1976年(昭和51年)4月。「ロック=英語」という既成概念に疑問を持った
ミュージシャンが、「路地裏の少年」でソロデビューします。
浜省(ハマショー)の愛称を持つ浜田省吾さんです。

既成概念の壁とは、高いモノです。その後3年の間、印税収入も少なく、
生活することも音楽活動もままならなかったと言います。
ロック志向なのに生ギター1本で全国を巡業する姿は、弱気者の姿でしょうか?
日本語による歌詞や歌唱にこだわった浜田省吾…。
「巻き舌で、日本語を英語っぽく歌いたくない」と語った浜田省吾…。

しかし、彼の拘りは、当時の若者に徐徐に響いていきます。
尾崎豊、福山雅治、桜井和寿…彼の音楽に影響を受けています。
芸能界・スポーツ界の中にも多くの信者が居ますよね。

信念に真っ向勝負する浜省(ハマショー)は、漢(おとこ)だと思います。
彼の歌に出会えたこと、私の人生の宝です。
名曲の多い浜省(ハマショー)の曲の中で、
「もうひとつの土曜日」は、大好きな曲の一つですね。

「土曜日」は本命の彼のために…
もし、僕だったら君に「もうひとつの土曜日」が用意できるんだ。

この曲は、そんな解釈でいいのかなぁ~?

石田三成は、主君である豊臣の治世を継ぎ、再び戦乱の世にしたくない…と、
大谷吉継に固い信念を伝えます。そして、吉継は言います…
「親友の、おまえを見放すわけにはいかない」と。

敗戦後、三成の居城・佐和山城が落城した折、誰もが悪意に満ちた思いで、
三成が莫大な私財を蓄えていると思っていました。

しかし…

そこで見たモノは、板張りの壁・風情の無い庭・粗末な石積み…でした。
…「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。
…残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」

と、日頃語っていた三成の人間的な魅力を感じますね。

後に、あの水戸光圀は三成をこう評価しています。
「三成を憎んではいけない。
主君へ、義の心を持って戦ったのだ。
君臣の心得とすべし」
と。

時代に「if」は無いけれど、後世が三成の時代であったなら、
日本はどうなっていたのでしょう?
歴史は不思議なモノです。300年続いた徳川の世を終わらせたのは、
関ヶ原で西軍として敗戦した漢(おとこ)たちの活躍でした。
信義を貫いた石田三成もまた、漢(おとこ)だと思います。

石田三成の「もうひとつの土曜日」を見てみたかったなぁ~。

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| 1976年(昭和51年) | 13:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和51年]はらたいらに3000点。クイズダービーの賭け方。

クイズダービー

酒の席で「人生はギャンブルのごとし」と豪語する人がいます。
ここ一発、人生勝負の時のアドレナリンの高さは、ギャンブル以上かもしれません(笑)
しかし、ゲームならまだしも、人生に負けるなど、きっと誰も望まないはずです。

競馬好きで有名な作家・寺山修司氏は、「遊撃とその誇り」の中で、
「賭博には、人生では決して味わえぬ敗北の味がある。」

と語っています。
ゲームで負けを体験し、人生に「負け」の免疫を付けるのも、いいかもしれませんね(汗)

1976年1月放送開始。大橋巨泉を司会者として始まった「クイズダービー」は、
競馬のテイストを入れながら、ギャンブルのスリルを味わえる番組でした。
競馬馬に見立てた回答者は、個性豊かな人ばかり、
倍率は低いが高い正解率で手堅い、漫画家のはらたいら。
三択の女王の呼ばれた、女優の竹下景子でコツコツ。
トンチンカンな解答をするものの、大穴を狙うなら井森美幸。

誰に賭けるか?何点賭けるか?
まだ、ギャンブルを知らない当時の私は、ギャンブルを疑似体験をしていました。
勝つ者、負ける者…ひきこもごも。
大橋巨泉の絶妙なトークが、笑いを誘い、高視聴率叩きだしていました。

クイズダービーを知っている人なら、一度は口に出した覚えのあるのが、

はらたいらに3000点。

クイズタービーのルールは、3000点の持ち点でスタートします。
「はらたいらに3000点」は、1問目に持ち点全部を賭ける一発勝負の禁断の技です。
負ければ、いきなり0点。次の問題へ繋がらない、収録泣かせの賭け方ですね。
この「はらたいらに3000点」を試みようとした回答者が、
1976年から92年まで、16年続いた中で2人います。
一人はとんねるず。ま、これは、ネタ振りの「はらたいらに3000点」でしょう(笑)
そして、もう一人は、勝新太郎の兄で名優の若山富三郎。
わわわ、その渋さは、まるで賭事師のようです。とても、ネタに思えません(笑)
司会の大橋巨泉から「早く帰ろうと思ってるなぁ!」と返されて、賭け直したとか。

ともかくも、掛け方は人それぞれ。
人生の駆け引きを子供心に垣間見たよう番組でしたね(笑)


クイズダービー

しかし、人生一発大勝負の例えで使われる「はらたいらに3000点」ですが、
実は、倍率の低いはらたいらに賭けても、せいぜい2~3倍ですよね。

とある回で、7問目終了時点で39,000点を持っていた古物商のチームがいました。
最終問題で、手堅いはらたいらを選ばす、最高倍率10倍の関根勤に全部賭けます。

そして名台詞の「倍率ドン! さらに倍!!」
関根勤の倍率はなんと20倍に跳ね上がります。

キターーーーーーーーーーーっ。一気に819,000点!!
は、は、819,000点ですよ。番組史上、最高額を叩き出しました。
人生でこんな勝ち方をしたら、きっと血圧が上がりすぎて、血管が切れてますよ~(汗)

いや~この勝ち方は怖いですよ(汗)勝つのも大事ですが、
負けない事の大事さを痛感します。
スタートは、手堅く、はらたいらに1000点。押さえに竹下景子に500点。
持ち点1500点を残して、次の問題へ。ってのはどうでしょう?

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| 1976年(昭和51年) | 21:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和51年]異様に失笑?6輪のタイヤを持つF1・ティレルP34

タイレル6輪

小学校の時、クラスに変わった子がいました。
いつもニコニコして、ドジばかりしていました。
靴を右左履き違えたまま、50mを全力疾走しても転ばない子でした(笑)
当然、タイムなど出ません。右左の履き違えを指摘しても、驚きもせず履き直します。
今の表現で言えば、不思議ちゃんでしょうか?

1975年、週間少年ジャンプに
スーパーカーの火付け役となった「サーキットの狼」連載開始。
スーパーカー人気の延長戦にF1マシンに興味を持った自分が居ましたね。
車は、4輪で走るモノ。それが常識と思っていました。

1976年。衝撃が走りました。
自動車レース最高峰のF1に、6つのタイヤを装備した異形のマシンが登場したのです。
その名は「ティレルP34」。
「ティ」とか「ファ」とか「ツァ」とか、そんな小洒落た言葉は当時の子供は使いません。
ズバリ、「タイレルP34」と呼んでいましたよ(笑)

前年、プロトタイプを見た、F1の記者たちは、
一同にその異形のF1を見て笑ったと言います。
しかし、その6輪マシンは、異形とは裏腹にコンストラクターズ3位まで登りあがります。

前輪を小さくした為に、ブレーキ性能が高まり、
コーナー深くまで突っ込んでいけました。
コーナーを回る時の挙動が、カクカクするのも魅力の一つでした。

異形に実力が備わった時、
人は失笑から歓喜の笑みに変わるんですね。




しかし、翌年1977年のシーズン終了をもって。タイレルP34はF1から姿を消しました。
原因は、小さくなった4つのフロントタイヤが規格外であったこと。
特注の小径タイヤの開発にタイヤメーカーが難色を示した事が原因でした。
異形が利点を生み、その異形が難点でした。
その後、F1車両規定改正で、タイヤは4輪までと決められてしまいます。

個性が消え、均一化された残念さを
心に刻んだのは言うまでもありません。


大人になり、小学校の頃、変わってると思ったあの子(人)に出会いましたよ。
皺が増えても、どことなく、あの当時の変わった感じがします(汗)
聞くと今、営業部長として、十数人の部下を持っているとか。
「俺みたいな変わり者でも、ちゃんと生活してるよ」と、
ニコニコしながら彼は話していました。

彼を見て思いました。
変わってると思っていたのが、全然変わってない。
その空気感が彼の持ち味なのかもしれません。


だってねぇ~。話してて、人を嫌な思いにさせないんです。
それって、営業マンにしたら、最高の個性ですよね。

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| 1976年(昭和51年) | 18:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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