日本大好き、昭和大好き。麦の子ブログ。

[昭和レトロ記事満載!!]生まれた日本、育った昭和の時代を見詰めた自分探しの旅へ。

2012年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年01月

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変わる事、変わらない事。蓄積された日本の文化。

兼六園

若い頃、広告の世界に身を置き、同僚や先輩と広告について、たくさん語り合いました。
「日本人は、流行のサイクルが早すぎる」なんて事を話していたのを覚えています(汗)
テレビや雑誌で取り上げられる新しいモノは、1~2年で姿を消します。
今の時代も変わらない日本の風景でしょうか?

日本人は、新商品や新サービスを使い捨てる飽きっぽさを見せながらも、
伝統や文化は別。遠ざかるような気配だけ見せて、
絶対捨てないのが日本人ですね(笑)


外国人が印象としてとらえる日本は、「東京」と「京都」でしょう。
常に変わり続けて、進化し続ける街が「東京」なら、
頑ななまでに変わらず、そこにある街が「京都」です。
変わる事、変わらない事の二面性を持った国が「日本」です。

建前と本音を使い分けるのが日本人だ!!なんて事を良く聞きます。
それも、東京・京都の例えのように二面性を持っているからかもしれません。

…と、数年前まで、そう思っていました(汗)

自分が20代を過ごした日本は、新しいモノが花盛りでしたね。
クイーン、カルチャークラブ、マイケルジャクソン等に影響されながら構築される邦楽。
フェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェの憧れから生まれる日本産スポーツカー。
ディスニーから始まり、手塚治虫の世界を越えて開花する漫画の台頭。
コンピュータに始まるゲーム&ウォッチ、ファミコンに代表される一人遊びゲーム。
海外ファッションに始まるDCブランドの台頭。

1~2年で消えていくモノを横目で見ながら、
30年後にそれらは、日本アレンジを加えられ、
新しい日本文化になっていきます。

日本の漫画・アニメ。日本のポップ。日本のゲーム…日本の技術…
JAPANの「J」を冠した文化や商品が、世界に逆輸入されていますね。

数年のサイクルで言えば、飽きっぽいととらえがちですが、
30~50年のサイクルで見れば、日本人は、
無駄を淘汰し洗練して日本人好みに作り直しています。
300~500年のサイクルで見たらどうでしょう?
当時、最新の文化や技術を、他国から取り入れていたのが
「京都」と言うことになるでしょうね。
文化や技術は長い時をかけて伝統となり、「和」の素晴らしさを構築して行きました。

サブカルチャーやムーブメントと言った流行から始まったモノづくりと関心は、
たゆまぬ努力と、楽しみを見つけ続けて、文化や伝統に昇華していきます。

日本人の凄いのは、新しい技術や文化に
伝統美を取り込む素晴らしさなのかなぁ~。と。


伝統=古臭い。というのは、浅はかな考え方ですね。
長い歳月をかけて継承され、磨かれてきた伝統的な技は、
現代が生んだ新しい技に不可欠となります。
今と昔を織り成すものづくりに、日本の奥深さを感じます。



なかなか、若い頃は、伝統文化に興味が持てませんでした。
30代、北陸の小京都・金沢で10年ほど過ごした事がありますが、
住み始めた頃に見た兼六園は、自分にとっては、ただの観光地のひとつでしたね。
10年住み続け、新しい表現のデザイン追求に限界を感じた時、
再度、兼六園を訪れてみようと思いましたよ。
庭園を歩いて、カメラのファインダーを覗いてビックリです。
どこをどう切り取っても、絵になるんです。
冬、自宅から兼六園のある市内までは、車で10分。
融雪装置のある市内は、スタッドレスタイヤだけで普通に行けます。
雪つりがされた兼六園をカメラ越しに見ると、やっぱり、絵になるんです。

何でしょう~この絵になる凄さは??

商品を絵にすることがデザインなら、兼六園の庭は、究極のデザインに思えましたよ。
伝統・文化の凄さを感じずにはいられません。

故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る。

新しい文化が生まれるたびに、
人は、故き文化の凄さと大切さに気づくんですね。


故きを取り込んだ新しい文化は、「J」の冠をするのかもしれません。
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| このBLOGについて | 22:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和57年]再び見たい。再見「NHK人形劇・三国志」

三国志孔明

社会人になり、仕事を始めた頃、上司に読むように言われたのが、
吉川英治の三国志と山岡荘八の徳川家康です。
どちらも長編歴史小説の代名詞ですね。
確かに、人生に一度は読んで損の無い名作小説です。
多くの登場人物に出会い、その生き方に触れた時、
きっと、誰かに感情移入し、感化される事でしょう。


しかし、その当時、自身の活字離れのせいで、小説を読むことはありませんでした(汗)
特に日本の戦国時代モノとは違い、中国の戦国モノは、
難しい漢字の登場人物が多く、読み始めると、誰が誰だか分からなくなります(汗)
その苦手を克服させてくれたのが、「NHK人形劇・三国志」でしたね。
人形師・川本喜八郎氏の美しい人形は、未だに人気で、脳裏に残っています。
登場人物の個性を強調した演出、ストーリーテラーとして、
漫才師の紳助竜介が、複雑な物語をわかりやすくしてくれました。
全68話のストーリーは、NHK大河ドラマを凌駕するボリュームです。

1936年、新聞連載開始、吉川英治の歴史小説「三国志」。
1971年、コミック連載開始、横山光輝の漫画「三国志」。
1982年、テレビ放送開始、NHKの「人形劇・三国志」。
1985年、歴史シミュレーションゲーム発売、光栄の「三國志」。
その時代、その時代の新しいメディアで、三国志に何度も出会ってきました。
再び見る。再見してみるのもいいかもしれません。




三国志には、いくつも感動させられるエピソードがありますが、
私は何と言っても、「出師の表」ですね。

関羽が亡くなり…張飛が亡くなり…先帝・劉備がこの世を去った時、
蜀のすべては、孔明の肩にかかっていました。
どれほどの重荷を背負い…どれだけ、自分を律しなければならなかったのか?
227年。蜀の将来のため、孔明は巨大になった魏に戦いを挑みます。
「出師の表」は、北伐(魏への遠征)に出発する際、若き皇帝劉禅を心配し、
そして、蜀のすべての人々に自身の思い込めた諸葛亮の遺書です。

死を覚悟し、自分が戦死しても劉禅が蜀を治められるよう、渾身の助言を残すのです。

先帝・劉備から、息子である劉禅に国を治める力が無い時は、
貴方(孔明)が皇帝となって欲しい。
そう言われた孔明でしたが、彼は劉備への恩義から皇帝になる事はありませんでした。
孔明が、劉備の遺言を守り皇帝になっていたら、
蜀の未来は変わっていたのかも知れません。
しかし、孔明は劉禅の丞相として、蜀を守り抜こうとします。心血を注ぐ働きぶりです。
恩を忘れず義に厚い孔明だからこそ、時代を経ても、
その魅力に誰もが負けてしまうのでしょう。

「臣亮言」。臣下の諸葛亮が謹んで陛下に申し上げます。
と、「出師の表」は始まります。

私は、元来平民として南陽で畑を耕しつつ、乱世の中に何とか生き延びる事のみを考え、
世間に名を成そうなどという事を考えておりませんでした。
しかし、先帝は私の身分の卑しさなどまったく問題にせず、
尊い身分であるにも関わらず、自ら三度も私の草庵に足を運ばれ、
この私に世の中をいかに成すべきかとお尋ねになられました。
私は、感激しました。先帝の為であればいかなる苦労もいたわず奔走し、
働くことを決意しました。
…略
先帝は、御崩御にあたり、国家の運営と漢王朝復興という
大事の遂行をお任せくださいました。
私は、命を受けてこのかた、朝から夜遅くまで、功績があがらないことによって
先帝のご威光に傷をつける事の無きよう心がけてきました。
…略
才能薄い私ではありますが、持てる力のすべてを尽くして、
魏の悪人達を一掃し、漢王室を再興して旧都に帰りたいと思います。
これこそが、先帝のご恩に報い、陛下への忠誠を顕す私の責務であると考えています。
…略
もしその任務が失敗に終るようなことがあれば、
私の罪を明らかにし量刑に処した上で、先帝の霊前にご報告ください。
…略
私は、先帝より頂戴したご恩への感激に耐えられません。
今、まさに国を遠く離れ、北伐を行うべきと考え、この表を書き始めたものの、
涙が溢れ出て何を申し上げてよいか、わからなくなってしまいました。
……



戦い半ばで、命を落とした孔明…。
先帝・劉備への思いが、ひしひしと感じられます。

再見(ツァイ・チェン)。

中国語で「再見」は、さよなら、ご機嫌よう…そして、また逢いましょう。

きっと、あの世で、巡り会い。
劉備・関羽・張飛…そして、孔明…。
桃源で園で、盃をかわしているのかもしれません。

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| 1982年(昭和57年) | 19:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和46年]青春は、汗と涙と友情と…森田健作「おれは男だ!!」

俺は男だ

平成の世を暮らしていると、昭和という時代は、私にとっては青春そのものです。
しかし、厳密に青春って何歳からでしょうか?
素朴な疑問が浮かんできます。

中国の故事によれば、人生を季節と色で区分しています。
人生を80年とすれば
玄冬(幼年期)の時代は、20歳まで
青春(青年期)の時代は、21歳~40歳。
朱夏(壮年期)の時代は、41歳~60歳。
白秋(老年期)の時代は、61歳~80歳までと言った感じでしょう。

故事的に言えば、青春は成人式を迎えてからとなります。
でも、青春時代って、もう少し早くから始まってると思いませんか?


それを教えてくれたのは、1本のドラマでしたね。
夏木陽介や竜雷太主演で人気となった日本テレビの青春ドラマシリーズとして、
1971年(昭和46年)2月から放送を開始した、森田健作主演の「おれは男だ!!」です。
当時、私はまだ小学5年。青春の「せ」の字も感じることのない子供です(笑)

共学になったばかりの名門女子校だった青葉高校に
森田健作が演じる主人公・小林弘二が転校してきます。
男子生徒は少なく、女子生徒が主導権を握る高校で、
「ウーマンリブ」の打倒を掲げ、男子生徒を集めて剣道部を作ります。
戦う「ウーマンリブ」のリーダーは、ご存じ、吉川君~!!(笑)



コミカルさを交えながらも、汗・涙・怒り・友情…をドラマの中から知りましたね。
高校になれば、あんな青春時代がやってくるとさえ思いました。
途中から転校してきた志垣太郎演じる西条は、
颯爽とジープを乗り廻し、浜辺でトランペットを吹きます。
おいおい…これも青春かぁ~(笑)ジープに乗るって…あはは。
無茶も青春の特権かもしれません(笑)

「おれは男だ!!」は、日曜の8時からの放送でした。
観終われば、9時。楽しかった休日は終わりです。
小学生の私は、登校の準備をして就寝タイム。
楽しい時間を過ごした後に訪れる、
寂しさもまた、青春でしょう?


ともかくも、「おれは男だ!!」は、大ヒット。森田健作は、青春スターになりました。
初めて買ったLPレコードは、なんと森田健作なんですよ(笑)
熱を上げるのもまた青春??

そして、「おれは男だ!!」の後番組は、あの村野武範主演の「飛び出せ!青春」です。
これまた大ヒットです。
大ヒット大ヒットと続いた後を受け、満を持して放送したのが、
森田健作・石橋正次の2大青春スター主演の「おこれ!男だ」~~~~!!

あはは(汗)…おこれって…
なんと言いますか?このドラマは不調に終わりましたね(泣)

青春とは…失敗も付きものだと知りましたよ。

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| 1971年(昭和46年) | 22:16 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和60年]究極の空気抵抗を目差して「スバル・アルシオーネ」

アバンギャルド-アルシオーネ

人には、保守的な考えと革新を目指す心が常に同居しています。
守りに入りすぎた自分の殻を破るために、
新しいことを始めようとするのもそのひとつですね。
しかし、同時に守りながら攻めると言うのは、実に難しい~(汗)

新しい技術や機能が成熟すると、企業・消費者も新たな何かを欲しがります。
この繰り返しを「時代のサイクル」と言うのでしょうか?


成熟しきったバブル経済が崩壊した後の日本は、新たな何か?を模索した時代でした。
90年代半ばから「アバンギャルド」と言う言葉を良く耳にしました。
20年前の言葉だと思うと、ちょっと古臭い死語の臭いがプンプンしませんか?

元々、アバンギャルドは、文化・芸術の世界で、最先端を意味する「前衛芸術」の事です。
時に前衛芸術=アバンギャルドを勘違いして、突拍子も無い事をする人がいますが、
そこに技術や思想の深みが無い場合は、すぐ飽きられてしまいますよね。



1985年6月。富士重工業から「スバル・アルシオーネ」発売。

キャッチコピーは「4WDアヴァンギャルド」

自動車業界は、それまで馬力や最高速度押しのカタログから一変します。
1980年代初頭より、ハイオーナーに人気のある車種販売に力を入れ、
1984年、白の三連星ならぬ、マークII・チェイサー・クレスタの三兄弟の登場で、
一気に「ハイソカー(ハイオーナーカー)ブーム、ここに極まれり!!」です。
豪華なモケット張りの内装とさりげないハイパワー…
4ドアハードトップで、パワステ・AT…もうもう、ラグジュアリーなんです(笑)
街中が白くなるくらい、走っていましたね(汗)
そんな、成熟したハイソカーに一石を投じたのが「スバル・アルシオーネ」です。

まさにアバンギャルドの塊。
居住性を犠牲にしたスタイリッシュなくさび形の2ドアクーペ。
スカイラインGT-R(R32)より先に採用された4WDシステム。
テレビゲームさながらの液晶式デジタル・メーター。
何よりも拘ったのは、空気抵抗値(CD値)です。

車は、馬力とトルクがあれば、速くなると信じていました。
高速で走れば走るほど、必要になるのが空気抵抗値だと
教えてくれたのは、アルシオーネでしたね。

日本車で初めてCD値0.30を突破し、0.29へ。
スーパーカーの代名詞ランボルギーニ・カウンタックが0.45ですから、
アルシオーネのアバンギャルドさが全開です(笑)

しかし、拘れば拘るほど、乗る人を選ぶのは世の常。
ハイソカーの波には勝てず、販売倍数も伸びなかったと言います。

あれから30年近く経った今…
前衛的だったアルシオーネの拘りは死んだのでしょうか?
いやいや、しっかり根付いて成熟の域に達しています。

空気抵抗値を下げることは、低燃費に繋がります。
高速に走るためのCD値から、低燃費で走るためのCD値へ。

ホンダ・インサイトやトヨタ・プリウスに代表するハイブリットカーは0.25の時代へ。

深みのある革新こそ、成熟への礎です。

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| 1985年(昭和60年) | 15:47 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和49年]YAZAWA。ガンガン行こうぜ!!ロックしようぜ。

矢沢永吉

人生の節々で、音楽は記憶と共に刻まれるモノです。
今更、自分が生きた昭和の時代の音楽を紹介したなら、
「懐メロだねぇ~」と、一笑されてしまうかもしれませんね。

でもね。昔の音楽を聞くと、その時の自分の立場や葛藤や喜びが、沸いて来て、
初恋にも似たキュンが、心に込み上げてきませんか?

「懐メロ」って、一般家庭にまだビデオが無い時代、
テレビやラジオが、音楽番組の一ジャンルとして企画したモノだと思うんです。

今の若者にしてみれば、AKB48 SKE48 HKE48…でしょうか?
名前は知ってても、一人一人は覚えきれません(汗)
歳を自覚する瞬間ですよ。秋葉やら名古屋の栄? 博多?
おいおい、水滸伝の108人かい? と無意味な一人突っ込みをしたくなります(笑)

ネットが隆盛を極める今、新しい歌も昔の音楽も好きなだけ聴くことができます。
「懐メロ」と言われた名曲が、リメイク、リスペクト、カバーされて、
若者の耳に届いています。
良い歌は、時代を超えて、若い人も年配も感じる時代になりました。


音楽は、自分の心の変化と共に、聴く耳や聴く心に刺さるものです。

ロックのスーパースターと言われる矢沢永吉さん。
誰もが知っています。当然、自分も知っています。じゃ、キャロルはどう?
若い頃、ロックは聴きませんでした。聴く心が当時無かったのでしょう。
しかし、ふっと聴いたキャロルの「夏の終わり」に心癒されてる自分がいます。

50のお仕返しで、巡り会えた一曲です。

1974年7月発売。キャロルの「夏の終わり」声が若いです。



若い頃、50の大人は、今までの経験や知識を頼りに、
守りに入るものかなと思っていました。
自分が50を過ぎた時、守りなんてとんでもない!!
まだまだ、やりたいことがいっぱいです。

………50歳を過ぎた時の永ちゃんのコメントです(←さん付けが、永ちゃんになってる)

「アコースティックライブやりたい」って自分で言ったものの、
あのアコースティックの世界を2時間、どう出せばいいのか…ビビっちゃって。

悩みに悩んだ。
「矢沢にとってのアコースティックって、どういうことなんだろう?」
クラプトンから何から、ロック界のアンプラグドなコンサートも、
ビデオからDVDからぜんぶ見たよ。

見て見て見て見たけれど、なんか、みんなすごくイイんだけど、
パターンが似てるんです。
みんな、雰囲気が似てる…オレはそれはいやだ。


だから、誤解しないで。
バラードをきれいに歌ってヨロシクだけじゃないよ?
ロックンロールの底辺があって、なおかつ、マイク蹴飛ばしてどうのこうのじゃない扉、
今までとはまったく違う扉が、あるヒントを得て、
見えはじめているんですよ。それがおもしろい。
ひょっとしたら、とんでもないことになるんじゃないか。

いま、52歳ですけど。
オレはこれを今年からなんかやっていくうちに、もしかして、67歳とか68歳とか、
そんなところまで歌えるんじゃないか、みたいな。
とんでもない扉を、
30年も音楽をやってきた今になって
見つけかけている、それが嬉しいですね。

…もちろん、マイク蹴飛ばすことだって、
これからも、ガンッガンやっていきたいんですけれど。
………http://www.1101.com/53/02.html より引用

これから、ロックしてもいいんじゃない。

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| 1974年(昭和49年) | 22:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和27年]ジャパン!ジャパン!メイドインジャパンは奇跡。

メイドインジャパン

今から10年前、何をしていましたか?

2002年の時、地元の岐阜を離れて、石川県金沢市で、デザインの自営をしていました。
IT・WEBが社会を大きく変える途上でしたね。

自分は、1961年生まれです。生まれる10年前、日本はどんな時代だったのでしょう。

1951年。そこは、日本で有りながら日本ではありません。
1945年に敗戦を迎え、戦勝国である連合国が、日本を統治をしていました。

所謂、GHQです。日本の国旗を振ることが許されない時代です。
敗戦から7年、1952年。
サンフランシスコ平和条約(1951年9月署名)が発効され、日本に主権が戻ります。

この歴史を、当然自分が肌で感じることはありません。
生まれる10年も前の話です。いや、たった10年前の話です。
主権を取り戻した日本は、怒濤の快進撃を始めます。
「東洋の奇跡」と呼ばれた日本は、経済大国に至ります。
両親や祖父母…多くの日本人がしゃにむに頑張った結果の奇跡だと思います。

近代日本史。自分の生きた時代を振り返れば振り返るほど、
日本の短所も長所も大好きになっていくのが分かるんです。

正しい歴史を学ぶことは、正しい未来を作ること。
そう思えてなりません。

しかし、昨今、隣国、韓国・中国の新聞メディアから
不条理な情報を耳にすると、居た堪れない。
日本の文化や技術が、伝承や交流、提携や協力と入ったまっとうな方法ではない…
捏造や虚偽、模造や偽造で手にした文化や技術に何の意味があるのだろう?

自分は絵を描きます。真似る行為が、絵の技術を高める事は知っています。
しかし、真似た絵をオリジナルと言う神経は持ち合わせていません。
いくら絵の技術が高くても、それは贋作としか呼ばれません。
オリジナルを作り出す事がどれほど大切か?
デザインの現場に入るからこそ、痛烈に感じますね。

真似る事から始めた新生日本は、たゆまぬ努力と汗をかきながら、
「東洋の奇跡」を生みました。
その奇跡は、単なる数字ではなく、
日本オリジナルを生み出して来た奇跡だと思うのです。

GHQの時代、日本で作られた製品は
Made in Occupied Japan(占領下日本製)の刻印がされていました。

日本で製造されただけの意味を持つ刻印ではなく、
日本の技術で、日本の技術者や職人がオリジナルを作り出す奇跡…

それこそ…Made in Japanです。





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| 戦中・戦後の時代 | 17:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和62年]芦毛の怪物。記憶の最強馬オグリキャップは男だよ。

オグリキャップ

サラブレッドとは、勝つために生まれた競走馬のことです。
人の生き方に、「サラブレッド」を当てはめて、表現することがあります。
実績を残すことを宿命づけられたサラブレッドが、
その期待通りの成績を残した時、
「最強」の名を手にするのでしょうか?


じゃ、最強の競馬馬は何?
競馬評論家の井崎脩五郎氏は、「競馬史上最強の馬は、ディープインパクト」であると。
2010年の競馬雑誌「優駿」が行った「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち100」のランキングで、堂々の1位を獲得したのもディープインパクト(2004年-2006年活躍)でした。
無敗の3冠馬と言われた、申し分のないその実績と絶大な強さは、社会現象となり、
競馬を知らない私でさえ、名前を覚えているくらいですから…
華麗にして、天才さを感じますね。

私は、競馬場に足を運んだことも、馬券を買ったこともありません。
そんな競馬を知らない私が。どうしても忘れられない一頭の馬がいます。

私は、営業で、良く岐阜と愛知の県境である木曽川の堤防を走ることがあります。
信号の少ない堤防を通り、岐阜方面へ向かうと、右手に見えてくるのが笠松競馬場です。
地主との兼ね合いでコースの内側には、今も畑が存在してます。
何とも特異で、のどかな光景でしょう。

そんなのどかな地方競馬からデービューしたのが、
後に「芦毛の怪物」と呼ばれたオグリキャップです。

オグリキャップ

彼は、サラブレッドとして生まれながら、致命的な障害を持って生まれてきました。
障害を抱えた仔馬が無事に育って欲しいと、
名付けられた幼名が「ハツラツ」です。

ハツラツは、人なつっこく、調教時も遊ぶ感覚だったと言います。

1987年1月、笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩。名を「オグリキャップ」と変えます。
1987年5月のデビュー戦で2位を飾り、1位・1位・2位。
続く8月からのレースは怒濤の8連勝。
そのハツラツとした強さから、中央競馬への声がかかります。
しかし、馬主の希望はあくまでも「笠松競馬で活躍させてやりたい」と。

このまま、笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか?

その一言がオグリキャップを、サラブレッド中のサラブレッドが競い合う
戦いのど真ん中へ押しやります。
地方競馬から出てきた、姿も芦毛のその馬が、ふたつみっつ勝ったところで、
そうそう簡単に力を認めてくれないモノです。時にヒール扱いもあったでしょう。

「白い稲妻」と呼ばれたタマモクロス。
「平成の盾男」と異名を取るイナリワン。
「鹿毛の天才馬」スーパークリーク
地方から出てきた一頭の馬が、ライバルたちと熾烈な戦いを繰り広げます。

どうやらオグリキャップは、
ホンモノの怪物らしい。

そう、誰もが気づいた時には、武豊の人気も重なって、日本中が大ブームとなりました。
競馬場に足を運んだことがない女性たちが、黄色い声を上げていました。
そのブームの過激さは、逆にオグリキャップを戦績不振へと繋げてしまいます。
競馬を知らない取材陣が、ところかまわず、密着取材と称して撮影するんですから、
人より過敏な馬ですよ、ストレスは溜まりますよ~(汗)



1990年5月、安田記念1着。6月、宝塚記念2着。
10月、天皇賞6着。11月ジャパンC11着で惨敗。
戦績が下降する中でむかえた12月の有馬記念は、ラストラン、引退レース。
成績不振にも関わらず、引退レースに多くのファンが中山競馬場に詰めかけました。
私も、テレビを見ていました。自分の意志で見る初めての競馬中継でした。
オグリキャップの最後の勇姿を看取るつもりのそのレースは、
一生、忘れられないレースとなりましたね。

ハツラツと呼ばれた仔馬が、「芦毛の怪物」として、ラストランをウィニングゴール!!。
「オグリ!オグリ!!」と鳴り止まぬ観客の歓声の中、走り抜ける一頭の馬に涙が出ましたよ。
馬券は買っていません。だから、擦った儲けたの感情は、そこにありません。
ただ、ただ…「男だよ。あんたは」と。

勝つために生まれた競走馬をサラブレッドと言うなら、
残した戦績で、ディープインパクトにオグリキャップは、
足元にも及ばないのかもしれません。
しかし、人の心に残した感動と勇気を考えれば、
オグリキャップもまた最強の名馬です。


1991年1月、笠松競馬場で引退式が行われました。
人口2万3千人の笠松町に、人口を上回る4万人の人たちが集まりました。

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| 1987年(昭和62年) | 22:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和44年]カリッと、アーモンドチョコレートは、大人の味?

グリコアーモンド

「苦(にが)み」と言うのは、大人になるにつけ、覚えていく感覚ですね。
それこそ苦痛と思える「苦み」を、糧に出来るようになれば、
世間では、「苦み走ったいい男」と言われるようになります(笑)

逆に子供は、「苦み」を知らず「甘い」だけで良いような気がします。
「苦み走った子供」って、いやはや…可愛げがないでしょう(笑)

「苦み」を嫌い、甘いものが好きなスイーツな大人が増えました。
甘さの持つイメージをそのままに、
「可愛い~大人」が流行でしょうか?


甘さは=砂糖の消費量です。国が豊かになるにつれ、砂糖の消費量は増加します。
食糧難の終戦直後は、甘さに飢えていた時代です。砂糖の消費量は最低でした。
その後、日本が成長する1952年頃から、砂糖の消費量はどんどん増えていきます。
私が小学低学年の頃は、まさに甘さの時代でしたね。

子供にとって、大好きなおやつは欠かせないモノ。
だからと言って、好きなだけ食べられるはずはありません。
親は、タダでおやつをくれません。
「良い子にしていたら、おやつをあげるからね」と、
しつけの後のご褒美でした。甘くないんですよ~(笑)


小遣いだって、少ない時代です。唯一、お小遣い以外でお金をもらい、
もらったお金を全て、おやつにつぎ込むことが出来たのが遠足でした。
遠足が間近になると、近所の駄菓子屋が活気づきます。
当時、おやつの上限は100円~150円。
少なそうに思えるその予算でも、店先には5円・10円のお菓子が山積みです。
十分、袋一杯にお菓子が買えた良い時代でしたよ(笑)

1969年11月。グリコから、「フライドアーモンド」発売。
一粒一粒が銀紙に包まれたそのチョコは、とてもオシャレでした。
キャンディコーティングされたアーモンドは、カリカリの香ばしさ。
アーモンドをくるむチョコレートの甘さと来たら、例えようがありません。

しかしねぇ~(汗)この「フライドアーモンド」…定価がなんと100円。100円ですよ。
100円で、袋一杯お菓子を買えた時代に、1箱100円です。もう宝石ですよね(笑)
袋一杯のお菓子か?宝石のような一箱か?
悩んだ友達が、その一箱を選んで、遠足に持ってきた事を今でも覚えています。
一粒一粒、ちまちま食べている姿のいじましさったら、ありゃしない(笑)
早々に、食べ終えて、袋にまだ残ってる他の子のお菓子を見ている時の寂しそうな目…
あはは、「人生、甘くないぞ」を知ったんじゃないでしょうか?(笑)

グリコアーモンド

値段帯からして、「フライドアーモンド」は、
子供のチョコではなくティーズのチョコです。

その後、田原俊彦や松田聖子がCMをして大人気。

1973年をピークに砂糖の消費量は減り続けます。
健康・虫歯・肥満を理由に甘いものを食べすぎない人が増えてきたからでしょう。

甘いだけでは、心も体も害します。
そして今、「オトナグリコ」をコンセプトに、松嶋菜々子と妻夫木聡がCMをしています。

大人の甘さって何だろう?
他人に苦く、自分に甘い? 他人に甘く、自分にも甘い?
いやいや、きっと…他人に甘く、自分に苦いって事かもしれませんね。

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| 1969年(昭和44年) | 21:20 | comments:1 | trackbacks:1 | TOP↑

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[昭和51年]はらたいらに3000点。クイズダービーの賭け方。

クイズダービー

酒の席で「人生はギャンブルのごとし」と豪語する人がいます。
ここ一発、人生勝負の時のアドレナリンの高さは、ギャンブル以上かもしれません(笑)
しかし、ゲームならまだしも、人生に負けるなど、きっと誰も望まないはずです。

競馬好きで有名な作家・寺山修司氏は、「遊撃とその誇り」の中で、
「賭博には、人生では決して味わえぬ敗北の味がある。」

と語っています。
ゲームで負けを体験し、人生に「負け」の免疫を付けるのも、いいかもしれませんね(汗)

1976年1月放送開始。大橋巨泉を司会者として始まった「クイズダービー」は、
競馬のテイストを入れながら、ギャンブルのスリルを味わえる番組でした。
競馬馬に見立てた回答者は、個性豊かな人ばかり、
倍率は低いが高い正解率で手堅い、漫画家のはらたいら。
三択の女王の呼ばれた、女優の竹下景子でコツコツ。
トンチンカンな解答をするものの、大穴を狙うなら井森美幸。

誰に賭けるか?何点賭けるか?
まだ、ギャンブルを知らない当時の私は、ギャンブルを疑似体験をしていました。
勝つ者、負ける者…ひきこもごも。
大橋巨泉の絶妙なトークが、笑いを誘い、高視聴率叩きだしていました。

クイズダービーを知っている人なら、一度は口に出した覚えのあるのが、

はらたいらに3000点。

クイズタービーのルールは、3000点の持ち点でスタートします。
「はらたいらに3000点」は、1問目に持ち点全部を賭ける一発勝負の禁断の技です。
負ければ、いきなり0点。次の問題へ繋がらない、収録泣かせの賭け方ですね。
この「はらたいらに3000点」を試みようとした回答者が、
1976年から92年まで、16年続いた中で2人います。
一人はとんねるず。ま、これは、ネタ振りの「はらたいらに3000点」でしょう(笑)
そして、もう一人は、勝新太郎の兄で名優の若山富三郎。
わわわ、その渋さは、まるで賭事師のようです。とても、ネタに思えません(笑)
司会の大橋巨泉から「早く帰ろうと思ってるなぁ!」と返されて、賭け直したとか。

ともかくも、掛け方は人それぞれ。
人生の駆け引きを子供心に垣間見たよう番組でしたね(笑)


クイズダービー

しかし、人生一発大勝負の例えで使われる「はらたいらに3000点」ですが、
実は、倍率の低いはらたいらに賭けても、せいぜい2~3倍ですよね。

とある回で、7問目終了時点で39,000点を持っていた古物商のチームがいました。
最終問題で、手堅いはらたいらを選ばす、最高倍率10倍の関根勤に全部賭けます。

そして名台詞の「倍率ドン! さらに倍!!」
関根勤の倍率はなんと20倍に跳ね上がります。

キターーーーーーーーーーーっ。一気に819,000点!!
は、は、819,000点ですよ。番組史上、最高額を叩き出しました。
人生でこんな勝ち方をしたら、きっと血圧が上がりすぎて、血管が切れてますよ~(汗)

いや~この勝ち方は怖いですよ(汗)勝つのも大事ですが、
負けない事の大事さを痛感します。
スタートは、手堅く、はらたいらに1000点。押さえに竹下景子に500点。
持ち点1500点を残して、次の問題へ。ってのはどうでしょう?

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| 1976年(昭和51年) | 21:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和47年]オードーリー・ヘプバーン。何と言ってもローマの休日。

ローマの休日

人が想像できるであろう映像表現なら、
今のCG技術を使えば、大抵できるのかもしれません。
映画館に足を運べは、映像がスクリーンを飛び出し、目の前まで迫ってきます。
遊園地のアトラクションと変わらないアミューズメントな世界が、今の映画です。

こんな時代に、カラーでもCGでも無い白黒映像で、
古めかしいファッションを身にまとい、
お転婆なお姫様が、街に飛び出して、新聞記者と恋をする。
そんな単純なラブストーリーを名作と告げたところで、
若い人は、それを名作と感じるのだろうか?


私が小学校低学年の頃、まだテレビは白黒でした。
カラー化が徐々に進み、新聞の番組欄には、カラー映像を誇らしげに語るように、
番組名に「カラー」の文字が、表示されいましたね



1972年4月。忘れられない1本の映画が、テレビ初で放送されました。
1953年に映画公開されたオードーリー・ヘプバーン主演の「ローマの休日」です。
息を呑むように親が観ているそばで、子供の私もブラウン管を覗き込んでいました。
日本の風景とは、まるで違う異質な町並み…
日本の女性とは違い、人形のようなオードーリー・ヘプバーン…

まだ、恋の「こ」の字も知らない純粋無垢な目線で、二人の成り行きを
白黒なのに、そこにまるで色があるかのような、夢心地で観ていたのを覚えています。

表敬訪問に来た王女に、記者たちが質問をするラストシーンの意味を
その当時、子供の私はよく分からなかったんです(笑)

記者:ご旅行された中で、どの街が一番でしたか?
王女:ローマです。何と言ってもローマです。

そっかぁ~ローマの旅行が楽しかったんだぁ~程度の感想ですよ(笑)あはは。
家族旅行が楽しかったのと同じ感覚かもしれません。

数年後、再び放送された「ローマの休日」を観ました。
少し成長した私は、そのラストシーンが、恋物語である事を知りました。

記者:ご旅行された中で、どの街が一番でしたか?
王女:ローマです。何と言ってもローマです。
そして、王女は言葉を続けます。
私はいつまでも、
この町の思い出を懐かしむでしょう。


たった1日の出来事です。
たった1日の思い出をこれからもずっと…です。

「永遠」と言う言葉と「恋心」が頭をよぎりました。
何とも甘酸っぱくて切ない感想を持ちましたね。
その時から「ローマの休日」は、私にとっての名作となりました。

ローマの休日

毎月、私はたくさんの映画を観ます。
素晴らしい映画・迫力のSFCGの映画・涙が止まらない感動の映画…
それでも、心に残り続ける映画は少ないものです。

きっと、成長する中で、シミのように心に染みこんだ映画を
名作と言うのかもしれません。
「ローマの休日」を名作だと、他人に押しつけたところで意味はありません。
名作は、人の数だけあるような気がします。

もし、CGバリバリの今時の映画を観る前に「ローマの休日」を観ていたら、
その人は、どんな感想を持つのだろう~

「あのヘップバーンのキュートさは、もうもう…神ですよ」と…。

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| 1972年(昭和47年) | 21:01 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和62年]コクとキレ、ドライ戦争勃発。アサヒスーパードライ。

アサヒスーパードライ

歳を取ると、病気や健康に気をつかうようになります(汗)
栄養指導を受けた折り、高血圧に気をつけるように言われました。
特に塩の取りすぎは注意です。
2010年4月、厚生労働省により「日本人の食事摂取基準」は、
男性は1日10g未満から9g未満に、女性は8g未満から7.5g未満へと
低減され、厳しくなりました。
結構、この数字は厳しいですよ~(汗)

特に日本の食文化は、味噌や醤油が欠かせません。更に塩付けの漬け物…etc
栄養指導を受けた人なら分かると思いますが、
もうもう~何食べたらいいのよ~と目が点になること請け合いです(笑)

1950年代当時の日本は食塩摂取量が20gを越えていたと言われています。
第一次産業や肉体労働が生活を支えていた時代は、食塩摂取量もこれで良かったのかも。
しかし、時代は高度成長を過ぎ、デスクワークの時代へ。
エアコンで室内の温度管理された事務所で、汗をかくことが少なくなりました。
ちょっとそこまでの道のりも、歩くことなく自動車ですよね。

更に肉中心のメニューも増え、油、脂肪の取り過ぎも注意。
何よりも、食の多様化で、濃い味付けのモノが
どんどん増えて行きました。




そんな、食の嗜好の変化を背景に、1987年3月。
夏の暑い日にクーーーと一杯、ビールに革命を起こした
アサヒスーパードライが発売されました。
実は、私は余りビールを飲みません。
それまでのビールは、「苦い」イメージしか無かったからです。
しかし、このドライビールは油の消費量が20年前に比べ倍に増えた時代に
苦味を抑え、甘さも少なく、食べながら飲むことを考えたビールでした。

仕事帰りに居酒屋へ行くと、日頃ビールを飲まない私も、
なぜかついつい、ドライビールを注文していました。
飲まない人まで、飲ませてしまうこのビールは、当然大ヒットです。
ビールはキリンと豪語していた人たちまで、アサヒドライビールに手を伸す始末…。
1996年6月、ビール界の巨人キリンを抜いて、月間シェアNo.1の座につきましたね。

どえりゃーい(どりゃい)ことです←あはは、名古屋弁です(笑)親父ギャグです(汗)

飲みやすいからって、
調子に乗ってると酔いすぎます(笑)


このドライは、従来のビールよりアルコール度数が高いんです。
えっ高い!!心拍数がバクバク…わ~血圧に悪いかも~~~(泣)
飲み過ぎで、中性脂肪に注意!!ううう~

心をドライにしないと、身体が持たなくなりますね(汗)

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| 1987年(昭和62年) | 20:59 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和58年]第37回衆議院議員総選挙。取り戻せ日本。国とは何?

初めての選挙

子供の頃、テレビは、娯楽のおもちゃ箱でした。
しかし、そのおもちゃ箱のおもちゃで、どうしても遊べないモノがありました。
夕飯を間近に向かえ、アニメタイムが始まる6時代のニュースです(汗)
父親は、感心しきりうなずいたり「どうなってるんだ」と憤慨したり。
ニュースと言うのは、大人を
あれほどまでに興奮歓喜させるんですね。


二十歳になれば、成人式を迎え、日本人なら等しく選挙権が与えられます。
当時の私は、選挙権を大人になった証と思っていただろうか?
社会や国の事などに、それほど関心はありませんでした(汗)
車やファッション・音楽…自分個人が楽しいことが唯一の関心事です。

安い給料の中から、高額な月賦を払い、車を買って乗り回していると、
「そんなに乗り回して、タダじゃないんだぞ」と親は怒ります。
「自分で買ったんだから、良いじゃないか」と私は逆ギレ状態です(汗)あはは。
車検代・修理代・ガソリン代…すべて親持ちの身分で、
良くもまぁ~大人気取りでいたものだと、
つくづく思いますよ。(汗)


1983年12月。成人となり、迎えた大きな選挙が「第37回衆議院議員総選挙」でした。
それまで、日本の政治は、自民党独裁の時代です。
「和の政治」をスローガン掲げながらも、マスコミからは直角内閣・暗愚の宰相と揶揄された
第70代内閣総理大臣・鈴木善幸氏の時代です。田中角栄氏の影響が大きかったんですね。
鈴木善幸氏の後を受け、第71代内閣総理大臣なったのが、中曽根康弘氏です。
これまた田中角栄元首相の後押しで政権を握ったと言われています。
そんな田中角栄氏が、ロッキード事件の裁判で実刑判決を受け、
向かえたのが「第37回衆議院議員総選挙」です。結果は惨敗。
自民党の歴史だった一党独裁は消え、連立政権が始まった激動の選挙だったんですね。

良く、子供の夢の一つに「総理大臣になる」なんて事を当時良く言われていましたが、
大平正芳氏・鈴木善幸氏と続いた総理は、なんと言いましょうか?
なんであんなに爺臭い風貌なんだろう~って。(笑)

次に総理となった中曽根康弘氏も、えええ、また~って感じです。
国家から成人として認められ、大人になったばかりの私の政治の印象は、
実に子供っぽかったと言わざるを得ません。

しかし、不思議と中曽根康弘氏の印象は、政権が長く続く中で変わったように思います。
アメリカに憧れもありながら、アメリカに卑屈さを少し感じていた時代です。
アメリカ大統領と並んで「ロン、ヤス」と対等に呼びあっていました。
レーガン大統領は、俳優出身で、風貌がずば抜けて垢抜けていた分、
横に並ぶ日本の総理も垢抜けた印象を与えてくれました。
何よりも、日本がバブル景気に突入する元気で熱のある時代でもありました。

中曽根康弘氏は、太平洋戦争の折り、海軍将校として従軍しました。
戦死した仲間達の遺体を火葬しながら、こんな句を詠んでいます。
…友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜
…夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ
そして、こう語ります。「彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、
いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。
美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。
「私の体の中には国家がある」と。

政治評論家竹村健一氏は、中曽根氏から畏友と言われながらも
「体の中に国家を持っている」政治家として、中曽根氏を敬愛していたと言います。

取り戻す

2012年12月。「第46回衆議院議員総選挙」
自民党が掲げたキャッチコピー「日本を、取り戻す」が、心を打ちました。
取り戻す日本とは、どんな日本でしょうか?

あれから30年、私は、大人になったのでしょうか?
日本…国家というモノをどれほど深く感じてきたのだろう?


昨晩8時を過ぎ、NHKの出口調査による速報は、自民党いきなりの圧勝をつげます。
ニュースと言うものが、これほどまでに興奮歓喜させるとは。
あれれ…20代初めの頃とは違う、自分が居ましたよ(笑)

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| 1983年(昭和58年) | 20:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和48年]「どてらい男」とは、痛快に勝つこと。商売の大事さを知る。

どてらい男

人は、付加価値を生み出し続ける生き物です。
しかし、付加価値だけでは、資本主義の社会は生きていけません。
付加価値を貨幣に換えなければ、生活さえままならないものですね。

デザインと言う世界にいると、グラフィックアートに拘るばかり、
夢や理想に入りすぎ、ターゲットである企業や消費者を忘れて、
自分の内なる世界に入り込み過ぎる人を見かける事があります。
とりわけ、駆け出しのデザイナーに良くあるパターンです。

商売の「商」の字は、商品のやりとり、契約。
商売の「売」の字は、得られた売上の事。

商品であれ、サービスであれ、発注された相手もしくは消費者に渡して、代金を得る。
代金を得てはじめて、自分の生活が出来、次の商品づくりが行えます。
まさしく、貨幣は経済の血液です。

私が、広告デザインの世界に見習いとして入った時、
不思議と広告がアートの要素を大事にしながらも、
経済活動のひとつだと、割り切れたのは、あるドラマの影響でした。



1973年10月より関西テレビで制作された西郷輝彦主演の「どてらい男」です。
故郷の福井から出て来た主人公山下猛造が、
大阪、立売堀の機械工具問屋に丁稚奉公に入り、
親友・尾坂と共に働き、商売の師たる大石将軍らに鍛えられて、
立派な商人(あきんど)に成長するドラマでした。

いや~このドラマを見ていた当時は、
未来がどうなるかさえ分からない小学生の子供でした。
問屋の主人や番頭からの執拗な虐めをハラハラしながら見ていました。
高視聴率に支えられ、戦後篇、激動篇、死闘篇、総決算篇とロングランのドラマとなりました。
中学の頃には、文豪の小説は2の次にして、花登筺の小説「どてらい男」を
少年週刊ジャンプ共々、読みふける…
なんとも頭の中がくちゃくちゃな少年でしたね(汗)

後に主演の西郷輝彦さんは、「どてらい男」が自分の芸能生活の
大事な分岐点だったと語っています。
また、「どてらい男」の面白さを、
…それまで花登先生のドラマと言うのは、細うで繁盛記にしても全部、
…耐えて、耐えて…耐えて勝つ主人公だったんですね。
…でも、初めてこの「どてらい男」は、
…耐えて耐えて…殴り返す。
…耐えて、殴り返して勝っていく。
…これが実に痛快でしたよ。…と。

確かに、その痛快さに心惹かれたのかもしれません。

そう言えば、ウルトラマンも、変身したらすぐ、スペシューム光線をバンバン出して、
怪獣をさっさとやつければいいのにと、思っていました。
しかし、怪獣と取っ組み合ってハラハラドキドキ…その内、カラータイマーがピコピコ。
ウルトラマンピーーーーンチ!!の瀬戸際で、スペシューム光線が炸裂です(笑)
「どてらい男」にヒーローを見ていたのかもしれません。

高度成長の時代、商売、経済で、日本はドンドン力を蓄えていきます。
オイルショックもなんのその…遮二無二に商売の世界で働くお父さんたちは、
子供たちのヒーローでしたよ。

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| 1973年(昭和48年) | 20:25 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和58年]まだあげ初めし前髪の…初恋は、ふりこ細工の心。

初恋

今時の音楽は、ストレートな恋愛モノばかりですね。
「お前が好きだ」「愛してる」「あなたに逢いたい」「切ない」…
挙句の果てに「いつ※の君は○△※□で○△※しよう~♪」
何言ってるのやら、声が聞きづらくて、チンプンカンプン(汗)
「ベイビーベイビー」「ロンリーロンリー」リズム取りのような相づちは英語。
音楽はノリも大事だと分かっていますが、
音楽はリズムだけじゃ無いですよね。
心にググっと刺さる歌詞だって必要です。


恋。とりわけ初めての恋は、誰でも特別なモノ。
ストレートに相手に気持ちを伝えられず、ドキドキ・ソワソワ。

表現する言葉が見つからない。当てはまる言葉を辞書で調べても見つからない。
そんな心を言葉にする人たちの事を
詩人というのでしょうか?


…まだあげ初めし前髪の
…林檎のもとに見えしとき
…前にさしたる花櫛(はなぐし)の
…花ある君と思ひけり

丸暗記した覚えのあるこの詩は、明治29年に発表された詩人島崎藤村の「初恋」です。
5音7音のリズムは、口に言葉を出すだけで、音楽に変わりそうです。

現代訳っぽくしてみれば…
…君と会う約束をしている林檎の木の下に行ってみると、
…髪を結い上げたばかりの君の姿が見えたんだ。
…昨日までの君とは違い、見違えるような大人になっていたね。
…前髪に花櫛を挿していた。
…僕は君の髪に花が咲いたように思ったんだ。
何とも、胸キュンな詩でしょうか?あはは(照)



1983年2月、初恋の心を「ふりこ細工の心」と表現した曲が生まれました。
サラリーマン風の風貌の今は亡き、村下孝蔵さんの「初恋」です。

…五月雨は緑色 悲しくさせたよ 一人の午後は
…恋をして淋しくて 届かぬ想いを暖めていた
…好きだよと言えずに 初恋はふりこ細工の心

村下孝蔵さんの「初恋」の素敵なところは、一音一句、発音が聴き取れることです。
うやむやにしない言葉のリズムが、心の誠実さや純白さを与えてくれます。
半端な英語もありません。
日本語の持つ比喩的表現の「ふりこ細工の心」が、
ストレートでない心のあり方を教えてくれます。

何度聞いてもいい曲ですね。

昔、帰宅して居ないあの子を校庭で待っていたような気がします(照)
初恋に「放課後の校庭」は、なぜか、しっくりきますねぇ~。

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| 1983年(昭和58年) | 20:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和60年]ダダン・ダッダダン。ターミネーター(T-800)

ターミネイター

人生を生きていると、時折分岐点と呼ばれる瞬間に出くわすことがあります。
人生を大きく好転させる瞬間かもしれません。
奈落の底に落ちる瞬間かもしれません。
しかし、時は止めることもできず、決断の瞬間は、おのずとやってきます。
幸か不幸か?その後の人生や如何に…(笑)

人生もし、あの瞬間に別の決断をしていたら…
時計の針を戻すことができたら…どんなに素晴らしいことか?
「IF」を考えることが多いのでは無いでしょうか?


だからこそ、時間を巻き戻し、
もう一度歴史を作るタイムトラベラーものが流行るのでしょう。

ダダン・ダッダダン、ダダン・ダッダダン。



近未来。反乱を起こした人工知能スカイネットが、
反乱軍の指導者ジョン・コナーの母親を殺害するために
ターミネーター(T-800)を過去に送ります。
更に、母親殺害を阻止するために、指導者ジョンは、
自分の父親となるカイル・リースを過去に送ります。
二つの使命が過去で交差する名作映画ですね。

1984年、米国公開。翌年1985年、日本で公開された
アーノルド・シュワルツェネッガー主演の「ターミネーター」は、
当時としては、破格の低予算で制作された映画でありながら大ヒットしました。

監督を務めたジェームズ・キャメロンは、前作で評論家に酷評を受け、
炎の中からロボットが現れて自分を殺しに来るという悪夢を見て、
本作製作のきっかけになった噂されています(笑)

若い頃は、失敗や後悔も多く、何度も何度もIFを考えたことがあります。

しかし、人生は塞翁が馬。

「白馬から落ち、その時、怪我した事を嘆いた青年も、
戦争に徴収される事無く、余生を静かに暮らした」という例えからも、
失敗と思った目の前の出来事も、未来の成功に繋がる大事な要因です。
成功をしたかに見えても、将来挫折の始まりかもしれません。

失敗も成功も、すべては未来の糧。

I'll be back.(また戻ってくる)

いやいや…時を止められないからこそ、過去に学び、
未来に目を向けていけるのかもしれません。

人生50年生きた今の心境は…「戻ってこなくて良いですから…(笑)」

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| 1985年(昭和60年) | 20:12 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和33年]丼にお湯を注いでハイ!出来上り。チキンラーメン。

チキンラーメン

深夜、遅くまで仕事をし、小腹が空いたらコンビニへ。
いつでもどこでも…が便利な時代ですね。

子供の頃、お腹が空いても、夕暮れ時、「ご飯ですよ」の母親の声がしない限り、
空腹を満たすことが出来ませんでした。
小遣いで、おやつを買ったとしても、空腹を満たす為ではなく、あくまでもおやつです。

子供の頃、テレビに夢中で、ご飯を食べていると、
「ちゃんと食べないとお腹が空くよ」と母親に叱られました(汗)

早く食べるという「時間」で怒られるのではなく、
ちゃんと食べるという「量」で怒られていました。

だってねぇ~。しっかり食べて置かないと、
次の朝まで、グウグウお腹を空かせる事になるんですから。

1958年(昭和33年)8月。お湯をかけて「ハイ出来上り」のチキンラーメンが誕生。
自分が生まれる3年前の話です。当時、うどん玉が6円のご時世に、
チキンラーメンは35円です。高級品ですね。

夕飯まで、待ちきれない子供にとって、インスタントラーメンは欠かせない存在です。
待ちきれずに、蓋を開けようものなら、麺はまだカリカリ状態です。
「なんで、待てないの~も~」と、
早い遅いの「時間」で怒られるようになりました。


人は成長すると、量より時間で
怒られるようになるのでしょう。

確かに、中学の頃、朝の食事の時は
「この子ったら、早く食べないと遅刻するよ」でした(汗)

チキンラーメンはその手軽さから、最近でもよく食べます。
丼に麺を入れ、皿で蓋をして、3分待つのだぞ(笑)
おや…待ち時間は、本当に3分?。
この3分と言う時間は、カップヌードルに影響された時間ですね。
チキンラーメン発売当初のCMでは、
「お湯をかけて2分でできるラーメン」がキャッチフレーズ。
いやはや、ずっと勘違いをしていたようです。

ラーメンと言えば、藤子不二雄の漫画に登場する
天然パーマの「ラーメンの小池さん」が有名です。
でも、あの小池さん。実は、小池家に下宿している鈴木さんだったんですね(汗)
いやはや、これも勘違いです。

この歳になっても、母親は「ちゃんと食べてる?」と叱ります。
歳をとると、運動をしないこともあって、思うほど食べられません。


「しっかり、栄養のあるものを食べるんだよ」

あっ、「量」の事じゃないんだ(汗) これは、痛い勘違いです。



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| 戦中・戦後の時代 | 19:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和56年]A-LONG-VACATION。君は天然色でトロピカル。

大滝詠一

今までの夏は、どんな歌を聴いていたのだろう~??
と、思わせるほどの曲が、1981年に登場しました。
大滝詠一と松本隆が作り出した1枚のアルバムが「A-LONG-VACATION」です。
40~50代の人なら、この曲を知らないはずはありません。

「はっぴいえんど」と言うコンビを組み、マニアの中では、名の通っていた2人でした。
5年の低迷を過ぎて、爆発的なヒットを生み出した事は、当時の音楽業界からすれば、奇跡だったようです。
潮干狩・海水浴と言ったジリジリした夏を…その2人の奇跡は、
ヤシの木・ビーチ…そして、トロピカルなイメージに
変えてしまったのです。




…くちびるつんと尖らせて 何かたくらむ表情は
…別れの気配を ポケットに匿していたから
…机の端の ポラロイド写真に話しかけてたら
…過ぎ去った過去 しゃくだけど今より眩しい

もうもう、聴き過ぎて、つらつら詩が出てきます。
100万売り上げたアルバムは、今なら400万枚の値打ちがあるそうです。
レコードだけじゃありません。カセットも買いました。
家で聴くためのレコード。浜辺を車で走りながら、
カーコンポで聴くためのカセット。
なんて、贅沢なお金の使い方をしたことか(笑)


翌年1982年には、レコード&カセットからCDへ変わります。
世界初のCD化タイトル20枚の中に選出されたのも「A-LONG-VACATION」でした。
しかし、CDまでちょっと買えませんよ。
まだまだ、CDプレーヤーなんて、みんながみんな持ってませんでしたからね(汗)

ともかくも、それから迎える夏は大滝詠一一色だったのを覚えています。

現在、音楽を聴く時、様々音楽配信サイトを利用しているのでしょうか?
データをスマホやiPodにダウンロードして聴いてるのでしょうか?

近年、音楽ランキングの集計が、違法ダウンロードによりCDが売れないとの理由で、
CD売上枚数ではなく、DL数も加味するようになりました。
当初は100万ダウンロードもあったようですが、
やはり、違法コピーのせいで、年々ダウンロード数が減ります。

2010年、著作権法改正により、違法コンテンツをダウンロードすることが違法に。
2012年6月15日、リッピング違法化+私的違法ダウンロード刑罰化法案 が可決。
2012年10月1日、リッピング違法化+違法ダウンロード刑罰化が施行されました。

誰もがDL数が上がると喜んでいたはず。
しかし、蓋を開ければ、2012年度発売作品で、DL数10万が精一杯です。
音楽がCDから、配信の時代だと強気だった業界の人も唖然ですよね。

音楽って、ただの
デジタルデータの塊じゃないと思うんです。

自身の顔を露出する事が無かった大滝詠一がジャケットに選んだのは、
1980年頃からイラストレーターとして活動を始めた鈴木英人です。

大滝詠一、松本隆…そして、鈴木英人。
曲、詩、イラスト…この3人が
日本の「夏」を「サマー」に変えたような気がします。

そんな付加価値があったからこそ、自分は惜しみなくお金を払ったのかもしれません。

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| 1981年(昭和56年) | 19:48 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和56年]新しい快感。薬師丸ひろ子の「セーラー服」と「機関銃」

セーラー服と機関銃

アイディアに詰まった時、その発想法に辞典や辞書を使う場合があります。
目の前に辞書を置き、ランダムにページを捲り、捲ったと同時に語句に指を指します。
もう一度、捲り指を指します。
異なる2つの選ばれた語句が、滞った脳を刺激して、回転を速めてくれるのです。

荒唐無稽の組み合わせに、笑いが込み上げてくることもありますが、
時にそれが、とてつもないパワーを見せる時があるんですよね。


セーラー服と機関銃。

赤川次郎原作、1981年、薬師丸ひろ子主演で映画化されました。
「セーラー服」と「機関銃」ですよ。これほど異なるものはありません。
余りにもかけ離れたモノを組み合わせる時、緻密な構成では、矛盾が起きます。

異なるものを組み合わせるのに必要なのは、
荒々しさとチャレンジ精神でしょうか?


この映画化は、書籍に新たな風を巻いた角川書店です。
若く才能溢れる相米慎二監督が、メガホンを取りました。
曲は、ヒットメーカーの「来生たかお」です。



それまで、アイドルが映画で成功を納めたものに、
1974年、山口百恵主演「伊豆の踊子」があります。
原作は、言わずと知れた川端康成。配給は東宝。
監督は映画界の重鎮・西河 克己。オープニングテーマは都倉俊一。
「セーラー服と機関銃」とは違い、「伊豆の踊子」は
蒼々たるメンバーが名を連ねていますね。

「セーラー服と機関銃」は大ヒットします。主演の薬師丸ひろ子の人気は、うなぎ登り。
実を言うと、アイドル写真集を唯一買ったのが薬師丸ひろ子だったんですねぇ~(照)
それも3冊です(笑)

しかし、薬師丸ひろ子をアイドルのカテゴリーに入れてしまうのに、
当時抵抗がありました。
山口百恵は、歌謡界でアイドルとなり、曲がヒットし、映画界へ。
薬師丸ひろ子は、映画があり、ヒットし、曲を歌いました。
すべてが逆の流れです。新しい風を感じたニューアイドルでしたね。
その新しい風の期待感と新しいヒロイン像に魅力を感じ、
唯一の写真集購入に繋がったように思います。

80年代初めは、そんな新しいアイドルが…
いや少女が新しい風を吹かせた時代でした。


2001年、「セーラー服と機関銃」の相米慎二監督は、満53歳で亡くなられました。
今、アニメやゲームの世界では、美少女が格闘し、剣を振り回し、
時には、巨大ロボットに乗って、敵と戦っています。
まさに「セーラー服と機関銃」です(笑)

きっと、監督は天国で「カ・イ・カ・ン」と、呟いているかもしれません。

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| 1981年(昭和56年) | 18:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和48年]愛と誠。「早乙女愛よ、岩清水弘はきみのためなら死ねる!」

愛と誠

漫画や人物イラストを描く時、目に一番心血を注ぐといいます。
ギャグマンガから書き始めた私が、劇画に興味を持ったのは、
1973年、少年マガジンで連載が始まった梶原一騎作・ながやす巧画の「愛と誠」です。

コミック第3巻の表紙に描かれた、
主人公・太賀誠の目は涼しくて、
いつまでも忘れられません。

かすかにほほえんだ口元、太い眉毛、とがったあご…
何度も何度も模写したのを覚えています。
しかし…この通りには書けないんですよねぇ~(汗)
そのストーリーもさることながら、絵の参考書として、何度も眺めていました。

「愛と誠」のヒロインは、早乙女愛。財閥のブルジョア令嬢。
いつも子供の頃にスキー場で助けてもらった誠を
「白馬の騎士」のように思い続ける清潔で可憐な美少女です。
しかし、数年後、出会ったその少年は、
フーテン・タイガーと異名をとる札付きで凶暴な不良になっていました。
あはは…フーテンって(笑)寅さんじゃないんだからと、
今なら突っ込みを入れられますね(笑)

ネール元インド首相が娘に当てた手紙の中に
「愛は平和ではない、愛は戦いである。武器の代わりが誠であるだけで、
それは地上における、最も厳しく激しい、自らを捨ててかからねばならない戦いである。」
の一文が、「愛と誠」のタイトルの謂われになっています。

清楚と粗暴。金持ちと貧乏。精神と肉体…そして、愛と誠。
相容れる事のないふたつを物語の中に読み取りながら、
「愛と誠」の世界にはまっていったのを覚えています。



それから10年後の1983年。資生堂から、目力をコンセプトにしたCMが流れました。
シャネルズ改めラッツ&スターが歌う「め組のひと」です。

………
いなせだね 夏をつれてきた女
渚まで 噂走るよ めッ!
涼し気な 目もと流し目 eye eye eye
粋な事件 起こりそうだぜ めッ!
………
このCMを聴きながら、目に力を入れていた10年前の自分を思い出しました。
人気絶頂だったシャネルズはグループ名をラッツ&スターへ。
資生堂のCMなのにシャネルズではいかん。との噂もちらほら(笑)
ラッツ&スターは、「ドブネズミと星」です。
地と天。陰と光。卑しさと尊し…愛と誠を思い出さずにいられません。

しかし、思います。ラッツ&スター…
左から読んでも右から読んでも「RATS & STAR」です。

清潔で可憐な早乙女愛が、戦いへ挑みます。
札付きで凶暴な不良・太賀誠が、真の愛を知る物語が「愛と誠」。


ふたつでひとつ。なんですね。

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| 1973年(昭和48年) | 18:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和51年]異様に失笑?6輪のタイヤを持つF1・ティレルP34

タイレル6輪

小学校の時、クラスに変わった子がいました。
いつもニコニコして、ドジばかりしていました。
靴を右左履き違えたまま、50mを全力疾走しても転ばない子でした(笑)
当然、タイムなど出ません。右左の履き違えを指摘しても、驚きもせず履き直します。
今の表現で言えば、不思議ちゃんでしょうか?

1975年、週間少年ジャンプに
スーパーカーの火付け役となった「サーキットの狼」連載開始。
スーパーカー人気の延長戦にF1マシンに興味を持った自分が居ましたね。
車は、4輪で走るモノ。それが常識と思っていました。

1976年。衝撃が走りました。
自動車レース最高峰のF1に、6つのタイヤを装備した異形のマシンが登場したのです。
その名は「ティレルP34」。
「ティ」とか「ファ」とか「ツァ」とか、そんな小洒落た言葉は当時の子供は使いません。
ズバリ、「タイレルP34」と呼んでいましたよ(笑)

前年、プロトタイプを見た、F1の記者たちは、
一同にその異形のF1を見て笑ったと言います。
しかし、その6輪マシンは、異形とは裏腹にコンストラクターズ3位まで登りあがります。

前輪を小さくした為に、ブレーキ性能が高まり、
コーナー深くまで突っ込んでいけました。
コーナーを回る時の挙動が、カクカクするのも魅力の一つでした。

異形に実力が備わった時、
人は失笑から歓喜の笑みに変わるんですね。




しかし、翌年1977年のシーズン終了をもって。タイレルP34はF1から姿を消しました。
原因は、小さくなった4つのフロントタイヤが規格外であったこと。
特注の小径タイヤの開発にタイヤメーカーが難色を示した事が原因でした。
異形が利点を生み、その異形が難点でした。
その後、F1車両規定改正で、タイヤは4輪までと決められてしまいます。

個性が消え、均一化された残念さを
心に刻んだのは言うまでもありません。


大人になり、小学校の頃、変わってると思ったあの子(人)に出会いましたよ。
皺が増えても、どことなく、あの当時の変わった感じがします(汗)
聞くと今、営業部長として、十数人の部下を持っているとか。
「俺みたいな変わり者でも、ちゃんと生活してるよ」と、
ニコニコしながら彼は話していました。

彼を見て思いました。
変わってると思っていたのが、全然変わってない。
その空気感が彼の持ち味なのかもしれません。


だってねぇ~。話してて、人を嫌な思いにさせないんです。
それって、営業マンにしたら、最高の個性ですよね。

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| 1976年(昭和51年) | 18:19 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和62年]JR「X'mas Express」と国内初の携帯「NTT TZ-802」

NTT携帯(TZ802型)

iPhoneやAndroid携帯のシェアが増えていますね。
映像・インターネット・電話・メール…手の平にすっぽり、ポケットにしっくり。
自分で楽しむのも、人に伝える事も、その場、その瞬間に行えます。
便利な時代になりました。

子供の頃、友達と遊びたい時は、決まってアポ無しでした。
玄関先まで行って「○○君~!!遊ぼ~!!」と声をかけるのが日常でしたね。


いなければいないで、家の人に言付けをして、別の友達の家へ。
決まった公園や空き地で遊んでいると、
言付けを聞いた友達が後から後からやってきます。
それが、子供の頃に身につけた約束の仕方でした。

1987年。国鉄が分割民営化され、JRとなりました。
岐阜に住んでる自分になじみなのは、やっぱり「JR東海」ですね。
新幹線の「岐阜羽島駅」は、今も昔も人の出入りが多い駅ではありません(汗)
車通りも少なく、出来た当時、整備された駅周辺は、
格好の子供の遊び場でもありました(笑)



日本国有鉄道からJRへ。民営化の第一歩であるイメージの払拭は、
翌年1988年から始まるクリスマスエクスプレスのCMで、
大きく拭えたような気がします。若い深津絵里ちゃんが可愛いですよね。

新幹線から、降りてくる彼をなかなか見つけられないもどかしさ…と、
来るか来ないかわからない彼女を待っている歌詞が、CMの映像とマッチして、
山下達郎の「クリスマス・イブ」が、
この時からクリスマスシーズンの定番ともなりました。

乗り遅れて、待ち合わせ時間にホームに着けない時、
あなたなら、どうしますか?
携帯があれば、こんなもどかしさは無いのかもしれません。


きっと、その答えは、待ち続けること…。

空き地で遊びながら、声をかけた友達を「きっと、来る」と信じていました。
そんな信じて待つ事が、素敵な時代でもありました。


しかし、同時期1987年。NTTから国内初の携帯(TZ802型)が登場します。
土建業を営む後輩がいち早く買って見せにきました。
初めて見るその携帯はごつごつとして、とてもポケットに入る代物ではありません(汗)
しかし、至るところで、人と連絡をする後輩を見た時、
新しい時代の「伝える」を感じましたね。
保証金20万円。基本が月額が3万円。
使いまくったら10万円は月にかかると後輩は嘆いていました。
とてもとても、当時デザイン見習いの自分としては、手に入れるのは無理でした(汗)

そして現在、誰もが携帯を持っています。
待つ事、待たされる事に、ソワソワではなく、イライラしていませんか?

携帯が浸透し、新しい「伝える」時代になっても、
約束したこと、されたこと…「約束」の重みだけは変えたくないものです。

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| 1987年(昭和62年) | 18:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和36年]もっとも若き合衆国大統領ジョン・F・ケネディ誕生。

ジョン・F・ケネディ

昔、絵を描くために練習で、たくさんのデッサンしました。
クロッキー帳にデッサンをしながら、思う事は、モノには、常に光と影があることですね。
光が強ければ、おのずと、その影を鉛筆で塗りつぶす事になります。

1961年は、私がこの世に生まれた年です。
当然記憶はありませんが、私の目に「この世」の光を感じ始めた瞬間です。
同年、アメリカで強き光が誕生しました。合衆国の歴史上、
もっとも若き43歳の第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディです。

大統領就任式の就任演説は、今の混沌とした日本で、
心に刻まなければならない言葉だと思いますね。

祖国があなたに何をしてくれるかを
尋ねてはなりません。
あなたが祖国のために何をできるか考えて欲しい。


暴政・貧困・疾病・戦争・人種差別…混沌した時代に、
その強き光でグイグイ引っ張っていきます。
掲げたアポロ計画は、人を宇宙という新たなフロンティアの光へ導いてくれました。

光は強ければ強いほど、その陰は暗黒となります。
大統領就任から2年後、1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ暗殺。

子供の頃、「ケネディ暗殺の真実」的な番組が多く流されました。
繰り返されるケネディ暗殺の映像…
その番組を見ながら思いましたよ。
未来に光しか見なかった子供が、人生には陰もあるという事実を。


ケネディjr

国葬の折り、父の棺に敬礼をするケネディjrの姿が忘れられません。
jrは1960年生まれ、同世代です。
大人になることが、少し寂しいとさえ思いましたね。

暗殺後のアメリカはまだまだ混沌しています。
ベトナム戦争、黒人差別・マフィア撲滅…
不思議なもので、陰が暗くなればなるほど、光は現れるモノです。
ジョン・F・ケネディの実弟ロバート・F・ケネディが、兄の意志を継ぎ、大統領選への出馬。
しかし、またも悲劇が…。大統領選最中の1968年6月、暗殺されます。

テレビは「ケネディ暗殺の真実」から「ケネディ家の悪夢」的な番組へと変わります。
どうなってんだよ~この世の中、おかしいんじゃないの~。
こうなったら、子供心にトラウマですよね(汗)

ケネディ家は、人種差別問題に積極的でした。
ロバート・F・ケネディが暗殺されたこの年、ベトナム戦争を嘆き…
平和な世界を夢見て1曲の歌が光をかざしました。
ルイ・アームストロングが歌うWhat a Wonderful World(この素晴らしき世界)です。



I hear babies cry, I watch them grow
私は赤ん坊が泣くのを聞いたり、成長してゆくのを見ています。
They'll learn much more than I'll ever know
彼らは私よりも遥かに多くのことを学び、知ってゆくでしょう。
And I think to myself, what a wonderful world
そして、私は心の中で思っています。何と素晴らしい世界。
Yes, I think to myself, what a wonderful world
ええ、私は心の中で願っています。何と素晴らしい世界なんでしょう。

この曲が、トラウマを持ちそうな子供にまた、光を教えてくれました。

自ら目を閉じ、自らの手で目を覆わない限り、常に光は消えないこと…を。

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| 1961年(昭和36年) | 16:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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桜を忘れていませんか?サクラサクラの原風景。

サクラサクラ

日本が大好きだ! 昭和が大好きだ!!

人生50年を過ぎ、今まで歩んできた道のりを振り返えろうと思えるようになりました。
この先にも続く長い道のりを、優しく見る事ができるかも…と思えるようになりました。

若い頃、自分が日本に生まれた意味を深く考えずに、生きてきたように思います。
西欧に憧れ、洋風は新しく、和風は古臭い…なんて、考えをチラチラ思いながら
日本人である事の意味を触れようとせず、生きてきたようにも思います。

敗戦から向かえた高度成長時代に少年期を過ごしました。
どんどん欧米化する生活と、それを実現する日本を
子供心にヒーローのように感じていましたね。

大人になる頃には、経済は停滞し、暗い影を落とします。
生活する事、仕事を覚えること、メディアから流されるめまぐるしい流行の波にもまれて
知らぬ間に「日本」が心から消えていたようにも思います。

人生50年。一区切り。
振り返るもよし、これからを考え直すもよし。丁度いい歳のようですね(笑)

そんなタイミングで、隣国の韓国や中国から日本へ様々な情報が飛び込んできました。
ネットの無い時代では、知ることの出来なかった情報が、
新聞やテレビよりも早く、伝わってきます。
今までは、新聞・テレビが世論を作り上げてきました。

しかし、そんなメディアも芸能ニュースを見れば、
芸能人BLOGに「こうあった」などと紹介し、
新聞・テレビニュースも世界からのWEBで知り得た情報を紹介する有様です。

既存メディアの世論作りの枠を越えて、
ネットから様々な声が、静かに時に激しくまとまり始めてるのをひしひし感じます。

ネットで自然発生的にできあがる世論もあれば、
きっと故意に作られる世論もあるはず…いやあります。
ネットも新聞・テレビ同様にメディアですから、情弱ではいけません(汗)

「桜は韓国起源で、韓国のモノだ!!」そんなネタをネットで知りました。
桜はどこが起源? 日本? それとも…
剣道・折り紙・盆栽…云々…これらも韓国起源だと、ネットで流れています。
それらの真意は、検索して調べてみるといいかもしれません。

自分にとっての「桜」は何だろう~
起源よりも、桜と共に流れる歴史や文化の方が
大事なように思います。


卒業式…学生服の肩に落ちた花びらはモノ悲しく、
入学式…ランドセルに落ちた花びらを背負って門をくぐりました。
花見酒を飲みたさに、場所取りをしたのは桜の下です(笑)

小学生の頃、「20円」と呼ばれた友達がいました。
学校から帰ると毎日、親からお小遣いの20円をもらってくるからです。
当時、20円で結構いろいろ買えたんですよ。
100円なんて持ってたら、どこのお大尽だ!!なんて言われた時代です。
その百円もコインじゃなく、お札でした(笑)
百円札がコインに変わり、買うお菓子も洋風化していきます。

数日前、缶コーヒーを買うために百円を取り出しました。
何気に百円玉の裏を見ると…そう…そこには桜があったんです。
知らなかったなぁ~(汗)百円玉の裏は桜なんです。
ずっとずっと、身近に桜はあったんですね。


百円硬貨の裏の桜

何気ない風景や記憶の中に、桜はあります。



正義か悪か? 遠山の金さんは、桜を散らします。桜吹雪ですね(汗)

紹介した動画の桜吹雪は、本当に美しい~。
こんな美しい桜吹雪を過去50回は見ることが出来たはずなのに
実は、ゆっくりじっくり何回見て来たのだろうか?
百円玉の桜のように、見過ごしていた方が多いように思います。

見つめ直すことを始めよう~


自分が育った昭和と言う時代を…そして、
日本を見つめ直すBLOGにしていきたいと思います。
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[昭和54年]甲斐バンドの「安奈」に理想の女性を見た。

甲斐バンド-安奈

男性漫画家の描く女性は、等しく理想の女性を極めたいと言います。
自分も、昔、漫画家になりたい夢を持っていました。
御多分に洩れず、わら半紙にBの鉛筆で描く女性キャラは、自分の理想への投影です。
しかしねぇ~技術が伴わないその絵は、とても魅力的とは思えませんでしたね(汗)

理想をカタチにすることの難しさを痛感しました。
何よりも、その理想は、時が経つほどに美化されていきます。

たゆまぬ絵を描く技術と感性の追求こそ、
理想に近づく唯一の方法です。


1979年。甲斐バンド13枚目のシングルとして発売された「安奈」を聞き直しました。
クリスマスソングとしても有名な一曲です。

当時、思春期、青春のまっただ中です。
「男は、強くなければいけない」と言われた時代です。
女の子は「○○子」のように名前に「子」が付いていた時代です。

甲斐よしひろの骨太の男らしい声から発する
「安奈」と言う名の「子」の無い名前の響き…。
仏壇にろうそくではなく、クリスマスキャンドルですよ(笑)

イメージは膨らみます。「安奈」って、いったいどんな女性だろう??



…………
安奈おまえの愛の灯はまだもえているかい

寒い夜だった つらくかなしい
一人きりの 長い夜だった
北へ向かう夜汽車は 俺の中の
心のように すすり泣いてた
そんな時おまえがよこした 便り
ただ一言だけ さみしいって つづってた

安奈クリスマスキャンドルの灯はゆれているか
安奈おまえの愛の灯はまだもえているかい
………
理想をカタチにするのは難しいものです。
しかし、甲斐バンドが歌う「安奈」には、
その理想の女性の印象を歌というカタチにした凄さを
聴き直して、痛烈に感じますね。


漫画家になりたかった少年は、社会に出て、
今、デザインという現場で生きる糧を得ています。

…おまえのもとに今 帰ろうとして
…今夜俺は旅を始める

聴き直して改めて知ったストーリー性のある歌詞。
サラリと流していたことをもう一度、確かめてみるって大事ですね。

たゆまぬ技術と感性の追求を…自分は、怠っていないだろうか?

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| 1979年(昭和54年) | 20:41 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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