日本大好き、昭和大好き。麦の子ブログ。

[昭和レトロ記事満載!!]生まれた日本、育った昭和の時代を見詰めた自分探しの旅へ。

2012年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年02月

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[昭和09年]星めぐりの旅、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」

宮沢賢治

人は、心変わりや苦しみを逃れるかのように北に向かうことがあります。
気持ちを高揚させるために、南へ向かう事があります(笑)
北、南、方向は違えど、人は何かを求めて、
この地という現実から離れようとするモノです。


ある男が、26歳の時、大切に大事に思っていた妹の死に直面します。
男にとって、大きな衝撃だったのでしょう。男は北へ向かいます。
北の果てが、天に近い場所だと思ったのでしょうか?
亡くなった妹の名は「とし」。男の名は「賢治」。宮沢賢治です。

恐怖や不安を心から解き放ち、安らぎを星空に求めた賢治でした。
人にとって、安心・安らぎって何でしょうね?

彼はその後、「銀河鉄道の夜」を綴ります。
初稿は1924年(大正13年)頃。賢治の死の翌年1934年(昭和9年)に発刊。
推敲が繰り返されたこの作品は、最終形を持たぬ未完の刊行でした。

…誰もいない暗い丘に寝転んで星を見上げた。その時ジョバンニは、
…銀河ステーション、銀河ステーションと云う不思議な声を聞いた。
…気が付くと彼は夜の軽便鉄道の車室に、窓から外を見ながら座っていたのだ。
…そして前の席には青ざめた顔をしたカムパネルラが乗っていた。
…不思議に思いながらもカムパネルラとの旅に胸を躍らせるジョバンニ。
…二人の幻想の旅が始まる。

作品に登場するジョバンニとカムパネルラは、銀河鉄道に乗ります。
ジョバンニは賢治。カムパネルラは妹のとし…。
「ほんとうの幸」を求めて旅する物語が、銀河鉄道の夜です。



私は、夜空を見るのが好きです。若い頃から、仕事も遅く…
今に至っても、深夜帰りが続くことがあります。
仕事が終わり、自動販売機で缶珈琲を買います。
宮沢賢治の「星めぐりの歌」を思いながら、見上げた夜空は、本当に綺麗なんです。

…あかいめだまの さそり
…ひろげた鷲の  つばさ
…あをいめだまの 小いぬ、
…ひかりのへびの とぐろ。

…オリオンは高く うたひ
…つゆとしもとを おとす、
…アンドロメダの くもは
…さかなのくちの かたち。

…大ぐまのあしを きたに
…五つのばした  ところ。
…小熊のひたいの うへは
…そらのめぐりの めあて。

昔からずっと、相も変わらず、夜空を見上げると、星空です。
時々、意地悪な雲が覆って見えない時もありますが…(汗)
星は、いつも空の上にありました。

いつもいつも…を感じられること。
これが安心…安らぎなのかもしれません。


現実の何かから逃れたい時…ちょっと疲れてほっと癒されたい時…
満天の夜空を見上げてみよう~きっと、どこからともなく…

「銀河ステーション、銀河ステーション」と不思議な声が、聞こえてきて…

未完だった「銀河鉄道の旅」の続きを
夜空を見上げた人の数だけ、語ってくれるような気がします。

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| 明治・大正・戦前の時代 | 12:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和36年]ロニオニって何?飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」

ルイジアナママ

自治体のサイトを制作した折り、日本語サイトの他に
英語版・中国語・韓国語サイトを制作したことがあります。
日本語サイトをまず制作し、それに併せて、英語訳・中国訳・韓国訳を
ライターからテキストを受け取り、はめ込むのです。
が、これがどうにも、日本語のスペースにしっくり収まりません。

日本語の漫画を英訳すると、吹き出しに収まらず苦労した…
と言う編集者の話を聞いたことがあります。
不思議なもので、日本語を英語に訳すと、文章量が増えるんですよ~(汗)

そのやりづらさを担当者に告げると、20歳程年上の担当者は
「ロニオニだよ。ロニオニ…」と言います。

「ロニオニ??」その時の私の頭の中は、疑問符でいっぱい。
言葉数が多い私の質問の返答が、たったの4文字「ロニオニ」ですよ(泣)

1961年(昭和36年)12月。飯田久彦が歌う「ルイジアナ・ママ」発売。
原曲はジーン・ピットニーの「Louisiana mama」。
オールディーズの定番として、この年代を知ってる人には、懐かしい曲ですね。
この年に生まれた私は、当然この歌を知る訳もなく…
「ロニオニ」の謎を解く課程で、知った1曲でしたね。



「ロニオニ」とは何?
「ロニオニ」とは、「フロム・ニュー・オリンズ」の事。
原詩の「from New Orleans」の発音を飯田久彦氏が、巻き舌で歌った為に
「ロニオニ」とか「ロニオリン」に聞こえたと言います。

言葉の数で言うなら「from New Orleans」はスペースを含め、16文字。
「フロム・ニュー・オリンズ」は12文字。
ルイジアナ・ママを加わるとその差は開くばかりです。

しかし、音楽には時間があります。
限られた時間の中で発音を盛り込むには、工夫が必要です。
「ロニオリン」と発音し、頑張って縮めた飯田久彦さんのセンスでしょうか?
特に洋楽のリズムを損なわないために、致し方ないことです。

しかし、歌詞を意味で捕らえるなら、
「Louisiana mama」の「mama」は、母親の意味ではなく、アメリカ南部の方言で「彼女」。
「Dixie queen(デキシークイーン )」は、その南部で一番の美人。
「red hot Louisiana mama」の「red hot」は、今で言うところのイカしてる。

飯田久彦氏が歌う「マイ・ルイジアナ・ママ・ロニオリン」とは、
「ルイジアナ州に住んでる僕の彼女は、
ニューオーリンズでイカした美人なんだぜ~♪」

と言う事になるのでしょうか?文字数が多くなりました(汗)あは。

言葉を数として、リズムとして、意味として、どう捕らえるか?
言葉って面白くて、イカしてますね~♪コトイカです(笑)



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| 1961年(昭和36年) | 12:47 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和59年]ロサンゼルス・オリンピック、柔道で山下泰裕、金メダル。

山下泰裕ロサンゼルス

道を極めようとする者の「極み」とは何でしょう?
「柔の道」における極みは、まさしく「一本!!」
投げた方は勝利を確信し、投げられた方は、負けを確信する…「一本」と言う勝利は、
日本生まれの武術であるが故に、日本人として拘って見てしまう勝ち方ですね。

その一本に拘り、試合中の負傷にも関わらず、金メダルを取った男が居ました。
1984年(昭和59年)7月。アメリカのロサンゼルスで開催された
オリンピック種目「柔道無差別級」の山下泰裕さんです。

彼には当時、世界に敵はいませんでした。
対外国人に対して、3引き分けを含む110連勝。
8年間で通算203連勝を達成し、無敗のまま現役生活を終えた、まさに怪物(笑)
道を極めようとする者にとって、最強の姿も「極み」ですね。

表彰台のてっぺんに登り、国歌「君が代」を聞かせてくれると誰もが思っていました。
私も、どこか余裕で、勝利を確信しながら、試合を見ていたのを覚えています。

1回戦、コーリー(セネガル)を、試合開始27秒、大内返しで瞬殺。最先の良いスタート。
2回戦、シュナーベル(西ドイツ)戦も、優勢に試合を進めます。送り襟絞めで勝利。
おやおや…山下選手の様子が何やらおかしい…
右足を引きずる様子に、どよめきが起こります。
準決勝、コロンボ(フランス)戦。なんと、2回戦のシュナーベル戦で、
右足ふくらはぎを負傷し、この試合から、テレビから目が離せなくなりましたね。
軸足の肉離れの影響で、開始30秒で大外刈りによる効果を取られます。
も…もしかして…もしかして、負けちゃう~と、手に汗が滲んできます。
その後、守りに入ったコロンボ選手の隙を見て、大内刈り!!
空かさず、横四方固め!!を繰り出し、合わせ技で逆転勝利~!!



続くは決勝戦。140キロの巨漢、モハメド・ラシュワン(エジプト)です。
山下選手は、その時、「勝利し、表彰台の中央で観客に手を振る自分」と、
「負けてタオルを被り泣く自分」を想像したと言います。

スポーツの「柔道」であるなら、ここで棄権をするのも有りでしょう。
棄権して、銀メダルとなっても、メダリストには変わりがありません。
しかし、柔道は「柔の道」。自分がどんなに不利になろうと、
敵を目の前にし棄権することなく、戦う姿に
「柔道選手」ではなく、「柔道家」の姿を見ましたね。

「柔道で一番大切なのは闘争心」と、自分の心を鼓舞した戦いは、
1分5秒、横四方固めが決まり、ラシュワン選手から一本を取ります。
後にこの試合で、ラシュワン選手が山下選手の痛めた足を攻めなかった事から、
国際フェアプレー賞を獲得し、美談としても有名になりましたね。

しかし、しかしですよ(汗)ラシュワン選手が美談通り、足を攻めていないなら、
山下選手の勝利は希薄なものになってしまいますよ~(汗)
スポーツにフェアプレイは似合いますが、「柔の道」は真剣勝負。
相手の弱みを攻撃してでも勝つのが、道のような気がします。

後日、山下選手は「ケガした右足を気遣って、
右の技をかけなかったというのは事実ではないと語っています。

日頃、試合で喜怒哀楽を表したことのない山下選手が、この試合の勝利ばかりは…
両手を力強く突き上げ、畳から立ち上がるオーバーアクションを見せました。
一本に拘り、無敗で最強を誇った男が、
最大の敵…「自分」に勝利した瞬間だったのかもしれません。。

それもまた「極み」。感極まって、流した涙が忘れられません。
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| 1984年(昭和59年) | 16:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和59年]三菱・ミラージュ「エリマキトカゲ」が走る。

エリマキトカゲ

私は昆虫はイイのですが、トカゲや蛇は、からっきしダメなんです(汗)

子供の頃、トカゲの尻尾が切れ、尻尾だけプルプル動くのを見ながら
大笑いする友達が、どうにも信じられませんでした(汗)
時に下校中の草むらで、最大の敵、蛇に出くわす時があります。
その驚きと来たら、この世の終わりと思うほどですよ。
蛇やトカゲを触っている友達を、気持ち悪いとさえ思いましたね(汗)

1983年(昭和58年)4月から始まった「わくわく動物ランド」は、
関口宏さんの司会で、世界の動物や昆虫を話題したクイズ番組でした。
その番組でお馴染みだったのは、動物学者の千石先生です。
毎回にこやかな顔で、動物や昆虫を紹介する人のイイ先生なんですが、
千石先生…実は、爬虫類・両生類の専門家だったんですね。
グロテスクな爬虫類をいとも簡単に手に持ち、そして、頬ずり…。
そして、にっこりと笑うんです(汗)

その笑顔を見ていると不思議なもので、
蛇やトカゲを触る人を気持ち悪いと思い込んでいた私が、
うわわわ~と目を細めながらも、千石先生のうんちくに耳を傾けているんです。
爬虫類や両生類にも生態があり、生きる知恵があることを
知らず知らずのうちに千石先生は教えてくれたような気がします。


先生は、子供の時、どうして、蛇は気持ち悪いとか恐いとか、
不平等な扱いを受けているんだろう…。と疑問を持ちました。
「無知が偏見を生んでいる!」そのことに気付いた千石少年は、
「正しい知識を皆に伝えたい」と立ち上がり、爬虫類に関する本すらなかった時代に
爬虫類の研究を始め、多くの賞を受賞します。

そして、千石先生が番組で紹介した一匹のトカゲが、
日本中で、大ブームを起こしましたね。



1984年(昭和59年)。三菱のミラージュのCMに起用された「エリマキトカゲ」です。
首のひだを大きく広げて、走る姿が可愛くて、
キャラクターグッズは元より、歌まで作られ、デパート等で展示もされました。
爬虫類がアイドルを越える人気者になったのは
前代未聞ですよ。

爬虫類が気持ち悪いだけの存在ではない事を、このブームは教えてくれました。

しかし…エリマキトカゲがひだを広げるのは、危険を感じて威嚇するポーズです。
可愛いからと、人間の都合でひだを広げさせられたのでは、
エリマキトカゲはストレスを感じて弱ってしまいます。

良かれと思って、みんなにエリマキトカゲを紹介したはずが…
千石先生の意とは違う方向へ、時代は流れてしまったのかもしれませんね。

私は今でも、爬虫類は触れませんが、
醜くて、忌み嫌うような気持ちは無くなりました。

CMで、撮影されたエリマキトカゲは、撮影後に死んだと聞きました。
醜いものがあるとするなら…それは、見掛けて判断する無知な心…
生態や個性を理解せず、利己的に押しつける心のような気がしてなりません。

「生き物の中で、ヒトが一番偉いだなんてとんでもない。」
そう語った千石先生は、2012年2月、癌のためお亡くなりになりました。


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| 1984年(昭和59年) | 21:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和53年]カレーハウスCoCo壱番屋・1号店をオープン。

coco壱番屋

子供は、カレーが大好きです。
私が子供の頃食べたカレーは、焦げ茶色をしたインドカレーではなく、
日本式と言われる、小麦粉の入ったとろみの強い黄色いカレーでしたね。
カレー好きはそのまま、大人になっても、カレー好きは変わりません。

20代前半の頃、繊維で活気のあった隣町、愛知県一宮市に職場がありました。
その県道沿いには、しょっちゅう食べに行くことになる
小さな一軒のカレー屋がありましたね。

そのカレー屋は、当時、大人気のクイズ番組だった
「ぴったし カン・カン」で取り上げられて、一気に話題に登りました。

1,300gのカレーライスを、20分以内で食べると無料になるんです。
カレーの辛さを選ぶことも出来、
その辛さの表現が俊逸で、番組の出題となりました。

1辛は、「口中ボーボー、三口でシャックリ」
2辛は、「汗はタラタラ、耳までマッカ」
3辛は、「目はパチパチ、十二指腸もビックリ」
4辛は、「頭はガンガン、二日酔いもマイッタ」
5辛は、「全身ガクガク、三日はケッキン」
さぁ~6辛~10辛は、なんと書かれてあるでしょう?

答えは「内臓破裂、医者の紹介致します。」です(笑)

「あの通りのカレー屋じゃん。行こうぜ。行こうぜ。」
友人数人と、興味半分で、食べに行ったのを覚えています。
ゾッとするような大盛りチャレンジをする友人の横で、私は700gが限界です。
標準でもピリピリ辛いのに、スパイスをこれ以上増やすのは無理無理…(汗)
400gが精一杯の今となっては、本当に懐かしい思い出ですよ。

チャレンジばかりが話題に上りがちですが、
本当に話題になったのは、病みつきになるその旨さでした。

そのカレー屋の名は「カレーハウスCoCo壱番屋」。通称ココイチ。
1978年(昭和53年)1月。名古屋市郊外西枇杷島町に1号店をオープン。
愛知県一宮市に本社を置き、FC展開を始めたばかりのカレー専門店でした。
今や全国のみならず、世界を股に掛ける大手企業となりましたね。

あれから30数年…。
母親が作る、ジャガイモがたくさん入ったカレーに懐かしさを感じます。
カレーの日になると、母親はいつもより多めに米を研いでいました。
チャレンジで強制されなくても、不思議とカレーは沢山食べられましたね。
そして、母親は本当に喜こんでくれました。

沢山食べるって、作る方も食べる方も笑顔になるものです。

CoCo壱番屋の人気チャレンジだった「大盛りチャレンジ」は、
旨さより話題が先行しすぎて、年間30トンもの残飯を出したと言います。
2003年。食品リサイクル法に基づき、名物チャレンジは廃止。

「食べ物で、もったいないことをしてしまった。」と、後に創業者は述懐しています。

いつまでも変わらない美味しさこそ、「懐かしい」と言うスパイス…。
ファーストフードカレーでありながら、
ココイチのカレーには、そんなスパイスが詰まっています。

このスパイスなら、何辛だっていけそうな気がしますよ(笑)

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| 1978年(昭和53年) | 22:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和28年]こどもの心。サンテグジュペリ「星の王子さま」

星の王子さま

ショッピングセンターやデパートで、子供の絵が展示されています。
子供の描いた絵を見る度に、いつも感心しますよ。
配色や構図に、知識や技術があるワケではありません。
大胆のようで…繊細のようで…奔放?爛漫?とでも言うのでしょうか?

良く広告の世界では、イラストレーターが子供の絵を真似して
クレヨン画のようなビジュアル表現をすることがあります。
どことなく、構図がしっかりしていたり、配色が絶妙だったり、
手慣れた技術と知識が、チラチラ垣間見えてきます(汗)
広告であれ、テレビであれ、子供というキーワードを、
宣伝目的に使うのは、実に大人な考え方ですね。

20世紀の巨匠、パブロ・ピカソは晩年、
「長くかかったが、やっと子供のような絵を描けるようになった」
「こども」の心に辿り着いた心の内を、そう言葉に残しています。

誰もを魅了する「こども」の心とは…どんなものでしょう?

1953年(昭和28年)3月。岩波書店から、1冊のファンタジーが発刊されました。
アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ作「星の王子さま」です。
1943年にアメリカで出版されたその本は、1億部以上出版され、
今もなお、世界の人々に愛され続けています。



サンテグジュベリにとって「星の王子さま」は、
自分の心の中にいる「こども」がテーマです。
普遍的な子供のイメージを、大人の「こども」に呼び掛けています。

…大人は、誰も、はじめは子どもだった。
…(しかし、そのことを忘れずにいる大人は、いくらもいない。)
と、作品の冒頭で語っています。
子供の心を失ってしまった大人に向けた1冊の本でした。

更に、「ものは心で見る。肝心なことは目では見えない。」の言葉は、
あまりにも有名な一節ですね。

「こども」の心とは、カタチでしか見ない…カタチに拘る大人には、
見えないものなのかもしれません。


物語の中……「ぼく」はある日、小さな星からやってきた王子と出会います。

王子さまが暮らしていたのは、一つの家ぐらいの小さな星でした。
バオバブの木は、成長すると王子の星を覆い尽くしてしまいます。
毎日毎日、自分の星を点検し、薔薇の木とバオバブの木を見分けては、駆除しています。
日没になると夕陽を眺めます。
小さな星だから、いつも腰掛けている椅子を少しずらしただけで、
夕陽を追うことができました。
ある日、王子は、一日に44回も夕陽を眺めました。
「そんなに夕陽を見るなんて、寂しかったんだね。」とぼくは言いました。
王子は…何も言いませんでした。

夕暮れって、子供心に寂しい思いをしたものです。
大人になった今でも、夕暮れを見ると、センチな気分になります。
心の「こども」がそうさせるのでしょうか?

夕暮れは、「こども」の心の扉を開く、鍵のように思えてなりません。


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| 戦中・戦後の時代 | 11:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和46年]千の顔を持つ男。覆面レスラー「ミル・マスカラス」

ミルマスカラス

昔ほど、格闘技やプロレスを見なくなりましたが、
10代・20代の頃は、テレビを食い入るように見ていましたね。
ジャイアント馬場やアントニオ猪木が毎週、
ゴールデンタイムのプロレス中継でパワフルな戦いを繰り広げていました。

勧善懲悪を元にした特撮ヒーローの強さとは違い、
プロレスの面白さは、筋肉で武装したリアルな男の戦いです。
主張がまかり通る事を正義と言うなら、
相手をマットの上にスリーカウント押さえた者が正義です。

相手を流血に追いやる悪役レスラーも、勝てばチャンピオンになれます。
歯がゆい思いをしながら、手に汗を握り、プロレスを見ていましたよ。

1971年(昭和46年)2月。力業が主だった今までのスタイルとは違い、
スピーディーさと空中戦と言う独特のスタイルを持ったレスラーが参戦してきました。
「千の顔を持つ男」と呼ばれた覆面レスラー、ミル・マスカラスです。

白と黒のメリハリの利いたマスクデザインは、
子供心に特撮ヒーローを越える格好良さがありました。
覆面で素顔を明かさない神秘さも、特撮ヒーローそのものです。
覆面の下から伸びる筋肉は、ボディビルで鍛えただけあって、見事な筋肉美。

そして…必殺の~
フライング・クロス・チョップ!!
ダイビング・ボディ・アタ~~~ック!!


どう考えても、特撮ヒーローの必殺技でしょ(笑)
ミル・マスカラスの格好良さはそればかりではありません。
入場の時には、テーマ曲の「スカイ・ハイ」が流れ、颯爽と登場します。
そして、「千の顔を持つ男」の由来である、
オーバーマスク(本マスクの上にもう一枚)を試合ごとに、観客に投げるんです。
ショーアップされた演出に、当時の子供はメロメロですよ(笑)



「覆面を被る」とは、虚勢や威圧のような負のイメージがありますが、
素の自分とは異なる人格に成りきり、
素顔では出せなかった実力を、発揮できる効果もあると言います。

しかし、今の覆面レスラーは、商業的なイメージアップのみを
考えてるような気がしてなりません。

覆面レスラーは、メキシコに多く存在したと言います。
昼間は他の職業に付き、夜に試合を行う為、正体を隠す必要がありました。
ライセンスの必要な海外で、非合法に試合をするために覆面を被ったとも言います。
仮面を被る事は、先入観無く、レスラーの力量のみを
観客にアピールする行為かもしれません。


当時のプロレスは、どこか外人レスラーを悪役に見立てていましたね。
正義の日本人が、悪の外人を倒す。
そんな図式が、日本人レスラーを熱烈に応援する理由でもありました。

しかし、覆面を被ることで、外人であろうがなかろうが、
強くて格好良ければ、誰でもヒーローになれる…
それをミル・マスカラスは教えてくれたような気がします。

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| 1971年(昭和46年) | 16:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[平成元年]日本GP直前、アラン・プロストのコメント

アラン・プロスト

ミハエル・シューマッハが、目標とし、
闘志をを剥き出しにしたのがセナだったように…
セナが、どうしても倒さなければいけない相手はアラン・プロストでした。
生涯4度に渡り、F1ドライバーズチャンピオンに輝き、通算51勝をあげた最大の壁。
そのドライビングスタイルは、徹底的なスムーズさです。
無駄を極限まで廃し、シフト回数、ハンドリング…燃費の良さ、タイヤの摩耗…
スロットルの踏み方ひとつに至るまで、完璧を求めたその走りは、
走行データが、如実に語っています。
人はプロストの事をプロフェッサーと呼んでいましたね。


1988年、1989年。セナとプロストは同じマクラ-レン・ホンダに籍を置きます。
チームメイトで身近に居ながら、もっとも強力なライバルです。
才気喚発で、果敢な攻めが、過激とも捕らえがちなセナに対して
冷静さのプロストとの間が、上手く行く訳がありません(汗)

1989年(平成元年)10月。日本GP直前にプロストはセナにコメントを出します。

…アイルトン・セナには、ひとつだけ問題がある。
…神を信じているから、自分は絶対に死なないと思っていることだ。
…この考えは、他のドライバーたちにとって非常に危険だと思う。

この言葉は、5年後にセナが亡くなる事を暗示しているかのように聞こえますね。
しかし、この言葉は、決して暗示では無いように思います。

セナが無謀でプロストよりもリタイヤが多いと錯覚しますが、
セナもプロストもレースの完走率は70%です。
燃料消費率は、プロストのわずか-1.5%。
パワーピークを拾うようにシフトアップするプロストに対して、
セナは、思いきって引っ張るシフトアップの差がマイナスになっただけ。



セナを身近で知る人たちは、セナに傲慢など思わなかったと言います。
ただ、ただ、そのひたむきなまでの姿勢が、
時に周りの人々の柔な心に、緊張を生んだのかもしれません。

あるジャーナリストは言います。
…セナは、F1関係者の間では、評判はよくない。
…しかし、彼はそんな評判などに興味はないし、超越したところで生きている。
…彼と友達になるには、少なくとも同等レベルでなければ話はできない。と。

その超越した姿を神と呼び、傲慢と呼んだのでしょうか?

ヒーローだったアイルトン・セナ。
彼はいつもスタートグリッドに立つと、心臓が飛び出るほど脈打ち、
頭が爆発寸前になったとセナ自身が語っていました。

…叶うなら78年か79年に戻りたい。
…何の制約もない、純粋にレースをしていた頃に。


ただただ、誰よりも速く走りたかった。
神でも傲慢な人間でもない。ただ速く…それが楽しかった。
周りは関係ない、それだけ…。ひたむきなその姿に、憧れます。

セナが亡くなって後、プロストがセナの人となりを語りました。
…セナが最も私を魅了したのは、彼が100%をレースに捧げていたこと。
…私の場合、98%くらいをレースに捧げているのだと思います。
と。

1~2%の差なんですねぇ~(汗)

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| 1990年代(平成元年以降) | 17:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[平成04年]ナイジェル・マンセルVSセナ。伝説のモナコ。

マンセル1992

自分に力が付いたかどうか?それを知るには、戦った相手を知る事…。
その敵が最強であればあるほど、自分もまた最強なのかもしれません。

前年、ワールドチャンピオンになったカーナンバー1のアイルトン・セナが、
1992年、ポテンシャルの上がらないHONDAエンジンに苦しんでいました。
この年を最後に、HONDAがF1の休止を発表。
不調のHONDAを尻目に、開幕戦から、
ウィリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルが破竹の5連勝を続け、
ただ者じゃない強さを見せつけていました。


続くは、モナコ、モンテカルロ。
モナコを知り尽くしたセナをもってしても、
マクラーレン・ホンダの劣勢は、目に見るよりも明らかです。
怪物的強さを見せるマンセルは、抜きどころの少ないモナコでポールポジション。
劣勢にありながらも、3番グリッドを握ったのは、セナの実力。

誰もがマンセルの勝利を疑わない状況で、レースは始まりました。
残り8周。トップを快走するマンセルは、空気漏れのトラブルに見舞われピットイン。
その間に20~30秒遅れで食らいついていたセナが、初めてマンセルの前に出ます。
しかし、セナのタイヤは限界でした。
ピットに入れば、マンセルの前に出る事はもう叶わないでしょう。
方やマンセルは、フレッシュタイヤ。あっという間に、セナを後ろに張り付きます。

右に左にセナを揺さぶるマンセル…。
コースを知り尽くしたセナを、容易に抜く事ができません。
手に汗握る名勝負は、ラストラップへ。
アナウンサーの絶叫が、その時の興奮を蘇らせます。




F1モナコGP1992年(平成4年)5月セナvsマンセル

…………伝説となったファイナルラップへ(フジテレビ実況)
三宅:「これから78周目。これから78周目。
    凄いレースになりました。凄いレースになりました。
    さぁ~ファイナルラップ。泣いても笑ってもこれが最後のラップ。
    78周目に入ります! 78周目に入ります!
    さぁ~259.584km。この戦いの果てには一体何が待っているのでしょうか?
    アイルトン・セナと…そして、
    ナイジェル・マンセルとの差はこれだけ。たったこれだけ。
    信じられないような、凄いレースになりました。
    さぁ~駆け下りていくアイルトン・セナ。
    アイルトン・セナ。念願の今シーズン初勝利か?
    ナイジェル・マンセルの開幕6連勝も…そしてルノーエンジンの初勝利も…
    モナコでの悲願のマンセルの初勝利も…ここで消えてしまうんでしょうか?」

…………モナコトンネル入口へ
三宅:「さぁ~」
今宮:「これは、接触しない限り抜けないですね。」
三宅:「え~。これはちょっと無理。無理のような感じがしますが…」

…………トンネルを抜けて、ヌーベルシケインへ
三宅:「さぁ~最後のチャンスだ!! 最後のチャンス!! 高速コース。どうか?」
    抜かせないセナ。セナ抜かせない!!
津川:「駄目だ!! 駄目だ!!」
今宮:「う~ん。押さえちゃいましたね。」
三宅:「ナイジェル・マンセル。勝利の勝利の灯火が向こうで、
    かすかに揺れて、今にも消えそうです。
    さぁ~シケインを抜けていった。アイルトン・セナ。やはりモナコでは強いのか?
    4連覇目前。アイルトン・セナ。4連覇目前。
    あぁ~このモナコの4連覇というよりも、この勝利は、
    マクラーレン・ホンダにとっては、大きな大きな意味があります。
    さぁ~これからラスカスに入る。ご覧の差。
    どんなにしても抜けない。
    ここはモナコ…モンテカルロ。絶対に抜けない。
    さぁ~ここでかわして! 最後の直線! 最後の直線!!
    さぁ~しかし…ここからの立ち上がりはホンダは速いぞ!
    ここからの立ち上がりはホンダは速い!!
    後ろから、マンセル…マンセルどうか?

    さぁ、ゴールイ~ン!!!!!!!!

    アイルトン・セナ。逃げ切った!! アイルトン・セナ。押さえきったぁ~。
    今シーズン初勝利。最後の最後…ギリギリいっぱいのところで、
    ギリギリいっぱいのところまで…
    このマクラーレン・ホンダのマシンは我慢しました。」

これぞモナコ。すさまじいデッドヒート。
一瞬もひるむことなく、セナもマンセルも全開で戦いました。
レースが終わり、マシンを降りたマンセルが、その緊張と疲労困憊の余り、
路面に座り込む姿が、その戦いの凄さを物語っています。

最強の敵を倒してこそ、人は最強と褒め称えるもの…。

モナコ・マイスターの名誉は、3勝を上げたドライバーを讃える称号です。
皇帝シューマッハは、伝説のグラハム・ヒルと並ぶ通算5勝。

アイルトン・セナは、5連勝を含む通算6勝。
今も讃えられ続ける最強のモナコ・マイスターなのです。

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| 1990年代(平成元年以降) | 12:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[平成12年]シューマッハ、セナの生涯勝数41勝に並ぶ。

シューマッハ

偉大さ凄さと言うものは、その時代の高揚さを
肌で感じなければ、なかなか分からないものです。

極東の小さな島国から、モータースポーツの王道フォーミラー1へ。
HONDAの参戦は、一部マニアに認知された小さな出来事でした。
あるドライバーとの出会いが、本田技研を「世界のHONDA」へ押し上げ、
日本人にまざまざと、その事実を教えてくれました。

その男に出会えたことが、宝物…。

男の名は、アイルトン・セナ(Ayrton Senna da Silva)。
音速の貴公子と呼ばれたF1ドライバーです。
HONDAと共に世界の頂点に君臨した男…。日本の誰もが愛した男…。
さまざまなバトルを繰り返し、絶対不利なスタートから、チェッカーフラッグを受け
「神を見た」と、言葉を残した男…。

ホンダからウィリアムズ・ルノーへ移籍した1994年。第3戦サンマリノGP。
超高速タンブレロコーナーでクラッシュし、彼は本当の「神」になりました。

その瞬間をテレビで見ていて、これほど心配で…
これほどショックなことはありませんでした。

その時、後にF1界の皇帝と呼ばれる事になる若きミハエル・シューマッハは、
セナに憧れ…その憧れのセナを脅かす存在になっていましたね。9つ違いです。
セナがクラッシュした時、その直後を走り、
憧れのセナの事故を誰よりも間近で見たドライバーでもありました。

憧れの人を愛し、追い抜く事で、その憧れを昇華させたかったのでしょう。
誰もが、世代交代というシーンに見かける男の戦いでもあります。

しかし、シューマッハは、セナを抜くことなく、目の前で憧れの存在を亡くします。
その時から、シューマッハの孤独な戦いが始まったのかもしれません。
独裁者のように「皇帝」と呼ばれ…それでも勝ち続けた彼の胸中を
私は、想像する事も出来ません。

そんな彼が、記者会見の席上、泣き崩れました。
その光景を見た時、シューマッハのセナへの憧れ・尊敬…彼にしか分からない
得体の知れない思いを感じつつ、ついつい目頭がウルウルしたのを覚えています。



2000年(平成12年)9月。ミハエル・シューマッハは、イタリアGPで、
セナの生涯勝数41勝に並びました。
席上、優勝インタビューが続く中、ある記者がシューマッハに質問します。

「これで、セナの持つ通算41勝に並びましたね。」

「…」(嗚咽)

シューマッハから、言葉が消えました。感情を抑えきれず、涙を流す彼を
両脇のハッキネンとラルフが、肩をさすります。
今まで、涙を流すことなく、F1サイボーグと呼ばれた冷静さはそこにありません。

憧れが、目標をつくり、人に力を与えます。
目前の憧れが消えた時、人はまた、一人で立ち向かう力を持ちます。


憧れが、自分を成長させる力の源である事を、
セナとシューマッハの関係を見て、そう思わずにはいられません。

シューマッハが強くあればあるほど、セナの偉大さは間接的に伝わってきます。
その時代を知る人は…その時の感動と凄さを
今に伝え続けなければいけないように思います。

昭和の時代を代表した男、アイルトン・セナは、昭和の宝物ですね。

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| 2000年代(平成12年以降) | 17:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[特集記事]F1最強伝説、音速の貴公子アイルトン・セナ。

セナタイトル

F1の皇帝と呼ばれたミハエル・シューマッハは、その戦績から、
誰もが異論のないF1史上最強のドライバーでしょう。しかし…
1980年代~90年代。プロスト・マンセル・ピケ…ベルガー・パトレーゼ…
名立たる最強ドライバーと鎬(しのぎ)を削り、
安全性が高められた今時のサーキットではなく、オールドタイプと呼ばれるコースで、
1秒1秒に命を賭け、勝ち抜いてきたセナに本当の強さを感じています。

シューマッハが記録に残るドライバーなら、
アイルトン・セナは間違いなく、
記憶に残る最強のドライバー…。

1960年3月21日生まれのセナは、私と同世代です。

しかし、今…彼はこの世にいません。

彼が残した栄光は、昭和を生きた私の大きな記録の一部です。


※随時、昭和を駆け抜けたアイルトン・セナを紹介したいと思います。
■ブログ内「アイルトン・セナ」関連記事
ナイジェル・マンセルシューマッハ
アラン・プロスト


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| 特集コンテンツINDEX | 17:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和61年]列車の旅は楽しく、A列車で行こう~♪

A列車で行こう

心と言うのは、喜怒哀楽の波に揉まれやすいものです。
それをネガティブに考えれば、「不安」に感じます。
喜怒哀楽が、心のリズムと言うなら、人は「それが生きる事」と実感するのかも…
できる事なら平穏無事に暮らしたいものです。

人は、心が揺れ動き、一定を保てなくなった時、
しばし、列車の旅に身を委ねようとします。
自分の意志では、自由にならない列車の速度が、心を静めてくれます。
ガタンゴトン…心地よい線路のリズムが、心を癒してくれます。
ただひたすら流れる車窓の風景が、淡々な心のあり方を問いかけてきます。
列車とは、自動車とはまた違う、人にとってソウルな乗り物のようです。

1986年(昭和61年)1月。NEC・PC88用ゲームとして「A列車で行こう」発売。
A国大統領の任命で鉄道会社の社長になった男が、線路を敷き、
大統領特別列車を西海岸まで走らせる鉄道経営ゲームです。
後に景観ゲームの色が強くなり、自分で作り上げた街の中を
列車で走る車窓モードが搭載されました。
列車の旅が疑似体験できて大ヒットとなりました。
日本のみならず、ドイツやアメリカで数々のゲームアワードを受賞。
世界に誇る日本クオリティのゲームです。
この列車ゲームの流れは、1996年アーケード公開「電車でGO!」へ繋がります。

二十歳の頃、ある後輩がいました。
世の中、インテリが鼻につくことなく備わってるヤツがいるものです(汗)
難しそうな本の並ぶ書斎に通されて、「ジャズでもかけようか?」と
言われてしまっては、見栄を張って「そうだね」としか、言いようがありません(汗)
プリプリのアイドル全盛の時代に育っています(汗)
歌謡曲しか聴いていない身としては、ジャズは、想定外。心は動揺します。



針を落とし、流れてきたのが「Take The A Train」。(A列車で行こう)

「おお~あの大統領列車のあれねぇ~」と私。

「…」と、後輩は、沈黙(泣)

「A列車で行こう」は、ゲームとばかり思っていましたよ。
しかし、後輩が掛けてくれたこの曲は、心に響きました。
一度心に響いたモノは、その後も消えないモノですね。
耳にする度に、感じたその時の事を思い出します。

ジャズの魅力は、アレンジとアドリブだと言います。
日々心が動くように、演奏する度に曲は変わります。
西洋音楽とアフリカ音楽の組み合わせから発展したジャズは、
黒人ミュージシャンの魂の叫び…とでも言うのでしょうか?
何よりも、喜怒哀楽にタダ翻弄されるだけじゃなく、
ジャズは、Swing(スウィング)が最大の魅力だと言います。


日本的には「ノリ」。
「スウィングしなきゃ、意味がない。」

と言う曲まであるほどです。

「A列車」とは実在する、ニューヨーク市地下鉄A線の名称です。
ハーレムの西に位置する高級住宅街から黒人音楽の聖地アポロ・シアターへ。
「ジャズを楽しむなら、速く行ける A看板の電車にお乗りなさい」
そんな意味がこめられていたんですねぇ~。

人生、喜怒哀楽を楽しまなきゃ意味がない。
旅は楽くなきゃ旅じゃない。さぁ~ノリノリで行きましょう~♪

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| 1986年(昭和61年) | 15:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和48年]ノーベル物理学賞受賞、江崎玲於奈博士。

江崎玲於奈

「夢がない」と悩む人に、頑張れ!!と言う言葉は酷なようです。
目標である夢や希望が無いのに、何を頑張れと言うのか?と、
逆に聞き返えされて、話の進みようがありません。
「とりあえず、何でもいいから勉強してみよう~」と言うのが精一杯です(汗)

何のために勉強するのだろう~
勉強が出来る子の将来は、「末は博士か大臣か」

と、子供の頃、よく言われましたね。

1973年(昭和48年)。「トンネル効果」を利用したダイオード開発で、
江崎玲於奈博士が、ノーベル物理学賞を受賞しました。私が、小学校6年生の時です。
昭和24年に湯川秀樹博士が、昭和40年に朝永振一郎博士が、
ノーベル物理学賞を受賞しましたが、私は小さくて記憶がありません。
日本で3人目の江崎博士の受賞はまさに、世界に認められ、その名を残す事の大切さを
先生や親から、口がすっぱくなる程、言われましたよ(笑)あはは。

偉い人になるためには、勉強は大事なんです。

翌年、1974年(昭和49年)。佐藤栄作、元総理が、非核三原則の提唱で
ノーベル平和賞を受賞しました。
まさしく私の時代は、勉強を頑張る子は「末は博士か大臣か」の時代でしたね。

明治の時代は、帝国大学に限り、博士号の授与は許されていました。
お国のために得られた学位は名誉であり、敬意の称号でした。
しかし、今はどうでしょう。
博士号を有しながらも定職に就けないオーバードクターの問題が
クローズアップされています。

今の時代、勉強しても、偉くなれるとは限らないんですね。

勉強を、偉くなる最終目標にしてはいけない…。
「偉い」とは、所詮は他人が決めること。


ダイオード開発について、忘れてはならない一人の女性が居ます。
黒瀬百合子さん。
理学部を卒業しばかりの新人として、江崎玲於奈博士の助手になった女性です。
純度を高めるための実験を繰り返す中、
彼女は、「不純物を加える実験をさせて欲しい」と、提案します。

その結果、生まれたのがエザキ・ダイオードです。
ノーベル賞を連名でもらって、おかしくない話ですね。
しかし彼女は、博士がノーベル賞を受賞する前に結婚退社をします。

博士が、1973年、ノーベル賞を受賞した翌年1974年。
黒瀬百合子さんはひっそりと、病魔のガンによってお亡くなりになりました。
39歳。誰よりも、博士の受賞を喜んだに違いありません。
黒瀬百合子さんにとっての勉強とは、何だったのでしょう。

自分が誇らしく生きるために続けるのが、勉強のような気がします。
黒瀬さんにとって、博士に師事出来たことが、
最高の誇りだったような気がしてなりません。


誇りとは、刻まれて消える事のない永遠の輝き…。
ダイオード特許の公示には、しっかりこう書かれてあります。

発明者 江崎玲於奈
 同  黒瀬百合子

その功績は、未来永劫…刻まれ輝き続けることでしょう。
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| 1973年(昭和48年) | 21:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和54年]オリビア・ハッセーと「君は薔薇より美しい」

オリビアハッセー

越えられない壁と言うものは、人の心を暗い闇の中に閉じ込めます。
もがけばもがくほど…心は不安に取り憑かれ、
自分さえも否定する羽目になるものです


高校生になり、時代の流行を追う毎日を過ごす中で、先生は、
「テレビ・漫画ばかり見ず、たまには文豪と呼ばれる本を読め」と言います。
「何のために学校に図書館があると思っているんだ。」とまで言います(笑)

「なんで、授業と関係ない本を押しつけるんだ」
「図書館を作ってくれと、頼んだ覚えはない」と、
心の中で先生に反抗していましたね(汗)
難しい心理描写や情景を、難しい漢字使いと格闘しながら読むのは辛いものです。
その苦手意識が仇となり、壁となって立ちふさがります。
壁の前で地団駄を踏んでいるのは、結局のところ自分のせいであって、
先生のせいでも、学校のせいでもありません。
先生は、出来る可能性を信じて、
ほんの少しアドバイスしただけの事です。


ヘミングウェイ…トルストイ…ドストエフスキー…
悪気が無いと分かっていても、先生~いきなり「世界の文豪」は、壁が高すぎますよ(汗)
「だったら、あらすじと人が書いた感想文でも読んみろ」と先生。
なるほど~「これだったら、30分でできそう~」ニコッと笑う自分が居ましたよ。

1968年(昭和43年)3月。世界の文豪ランキングの上位を飾るシェイクスピアの
「ロミオとジュリエット」が、イギリスとイタリアの合作で映画化されました。



1979年(昭和54年)1月、「ロミオとジュリエット」に出演したヒロインが、
カネボウ化粧品CMに出演し、そのCM曲と共に話題になりましたね。
ジュリエットを演じたオリビア・ハッセーと布施明が歌う「君は薔薇より美しい」です。

ジュリエットを演じた時のあどけなさは消え、CMのオリビアは、美しかった~。
その好奇心が、「ロミオとジュリエット」に触れるきっかけにもなりました。

どんな理由にせよ。小さなきっかけで、
壁を少し…よじ登る事ができるなら
こんな素晴らしい一歩はありません。
愛しのジュリエットは、すぐそこです。


…目にみえない翼ひろげて
…確かに君は変った
…歩くほどに踊るほどに
…ふざけながら じらしながら

目に見えないような半歩の歩みでも、
踏み出そうとした人の顔からは、笑顔はこぼれるものです。

その笑顔を見た人は、きっと「薔薇より美しい」と思うに違いありません。

ああ 君は変った~♪と、
心配してくれたあの人が…喜んでくれますよ。


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| 1979年(昭和54年) | 15:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和47年]マッハロッドでブロロロロ~「超人バロム・1」

超人パロム1

感性の高い人は、理屈より身振り手振りが多くて、感嘆や擬音が多いと言います。
表現したいことが、理論(理屈)より先に出るらしい~。
ヒットを打つためには、どうすれば?
「こう来たら、ぐっと…そして、ターンっと打つ!!! こうすれば打てますよ」
何のアドバイスでしょうか(汗)あの長島茂雄さんの指導です(笑)
でも、分かる人には分かるらしい(汗)

1972年(昭和47年)4月。東映製作の特撮「超人バロム・1」放送開始。
人気絶頂の初代「仮面ライダー」が、2年目を迎えた時期に登場しました。
原作をゴルゴ13で有名な、さいとう・たかを氏を起用。その為か、
石ノ森章太郎原作の仮面ライダーよりも
バロム・1はグロテスクな怪奇性が強調されていました。

子供ながらに、恐る恐る観ていたのを覚えています。

キックが主な攻撃の仮面ライダーに対して、バロム・1は爆弾パンチです。
大人が「へ・ん・し・ん」と、見栄を切る仮面ライダーに対して、
バロム・1は、半人前の子供が二人で一つとばかりに変身します。
同じ東映制作の為か、バロム・1は企画段階で
仮面ライダーのセカンドとして位置づけられていました。
その明確な大人なコンセプトを知れば、その違いは理解できますね。

しかし、視聴率の低迷…何よりも仮面ライダーを越えられなかったと言う
大人な判断から番組は、残念ながら35話で終了してしまいます。
でもねぇ~子供だった私は、凄く大好きでしたよ。

ダウンダウンの松本人志さんが、「超人パロム1」の主題歌を聴いて、
「訳がわかない歌でしょ。ズババババーンって。で、ギュン、ギュギューン(笑)だよ~」
と、そうギャグにしていました。

確かにそう言われると、意味不明で奇々怪々です(泣)
理屈な大人には、そう聞こえるのでしょう。




子供の頃、この曲を聴いていた時、不自然さは微塵も感じませんでした。
マッハロッドという乗り物は、ブロロロローで
ぶっ飛ばすんです。ギュン、ギュギュンって!!
敵の魔神ドルグは、ルーロ、ルロロっと出て来て怖いんです。
その魔神をズババババーンと倒すために…
バロムクロスで変身して、キューンキュンなんですよ(汗)あはは(笑)

何の違和感もなりません。きっぱり。
大声で歌っていました。
子供の感性に合ってるんですね(笑)


バロム・1に変身するパワーの源は、二人の友情のエネルギーでした。
二人が喧嘩をすると変身が解けてしまいます。

感性の違いから意味不明な人と勘違いされる人がいますが(汗)
その感性を認めれば、きっと、話し合えます。
情を分かち合えば、きっと、心は通じますよね。


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| 1972年(昭和47年) | 15:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和52年]ママ、覚えていますか?あの帽子。人間の証明。

人間の証明

コンビニに行くと、ついつい買ってしまうのが「麦チョコ」です。
どこのコンビニでも必ずある、定番のお菓子ですね。

子供の頃、お菓子は職人が売りに来ていたのを覚えています。
ロバのパン屋も、本当にロバが屋台を牽いていました。
ポン菓子職人のオジサンが、大きな機械を牽いて近所にやってきました。
「かあちゃん~お米を頂戴!!」と、母親にねだります。
母親にお米を少量、袋に入れてもらい、オジサンに手間賃を渡すと
お米に圧力と熱をかけて、ポン菓子を作ってくれました。懐かしい思い出です。
ドカーン!!と、けたたましい轟音と共に、
何倍にも膨れたポン菓子を、たくさん食べましたよ(笑)
お米のポン菓子に、チョコを付けたのが「ライスチョコ」。
麦のポン菓子に、チョコを付けたのが「麦チョコ」。

麦と藁と言うのは、いやはや…
子供心を蘇らせる魔法のような組み合わせです。


…母さん、僕のあの帽子、どうしたんでせうね?
…ええ、夏、碓氷から霧積へゆくみちで、
…谷底へ落としたあの麦わら帽子ですよ。

詩人・西条八十の「ぼくの帽子」の一節が、
ある映画をきっかけに、日本中の誰もが知る事となりました。

1977年(昭和52年)10月。角川映画制作・第二弾「人間の証明」公開。
前年1976年に第一弾「犬神家の一族」が大ヒット。
映画が売れれば、本も売れる。出版と映画ががっちり組んだ、
新たな時代のメディアミックスでした。




戦後の日本は、「ギブミーチョコレート!!」に代表される
紳士的な進駐軍であるアメリカ兵の側面と
強姦暴行を加える、まさに鬼畜の所行の負の側面もありました。
「人間の証明」は、まさに負の側面が根底に流れています。

東洋人の顔を持つ黒人ジョニーが、母に会いにスラムから日本に来ます。
優しく迎えてくれると思っていたジュニー…。

mama, do you remember…(ママ、覚えていますか?)

しかし母にとってジョニーは、忌まわしい過去でした。
夢にまで見た母との再会を喜ぶジョニーに、母は、ナイフを突き立てます。
母の気持ちを知ったジョニーは、「ママにとって、僕は邪魔な存在なんだね」と
自らの手で…ナイフを胸の奥深くに刺します。
なんともやり切れない映画でした。

西条八十の詩「ぼくの帽子」は、こう続きます。

…母さん、あれは好きな帽子でしたよ、
…母さん、あのとき、向こうから若い薬売りが来ましたっけね
…母さん、ほんとにあの帽子どうなったでせう?

しきりに麦わら帽子を気にしています。
誰でも、きっと心の隅に無くした「麦わら帽子」を持っているはず…。


あの懐かしいポン菓子は、どこへ行ったんでしょうね?
「麦チョコ」を食べる度、大切な何か?を思い出したくなります(笑)


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| 1977年(昭和52年) | 19:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和55年]神の仕業。ツクダ・ルービックキューブ

ルービックキューブ

小学校の頃、連珠倶楽部に入っていました。
連珠とは、縦横15本の線を持つ盤で行う五目並べの事です。
やり始めた頃は、年下の低学年にあれよあれよと負けてしまいました。
負けん気魂で1年ほど続けるうちに、不思議なもので、
何手か先が読めるようになります。神経が研ぎ澄ませば、何十手か先が読めます。
見えないモノが、見えてくる世界を…人は、神の領域と言うのでしょうか?

ま、小学生の自分が感じる程度は、神の足元にも及ばないですけどね(汗)

1980年(昭和55年)7月。ツクダオリジナルからルービックキューブ発売。
ハンガリーの建築学者エルノー・ルービックが考案したこの6面体パズルは、
発売と当時に大ヒットとなりました。
誰もがカチャカチャとパズルをする横で、大人になっていた私も挑戦してみましたよ。
しかし、1面は揃えられても、6面揃える技術がありません(汗)
6面体の組み合わせは、約4325京(京・けい=兆の上の桁)のパターンあります。
小さな宇宙を思わせるような数字が、
あのキューブには詰まっているんですね。


翌年1981年1月、帝国ホテルで「第1回全日本キュービスト大会」開催。
6歳から68歳までの幅広い年齢層の愛好家が参加し、最高記録は2分37秒(3回の合計)。
その後もルービックキューブの人気は衰えず、
日本ルービックキューブ協会・世界キューブ協会設立。



多くのファンに支えられながら、ルービックキューブは、新次元へ。
いかなる状態からでも、最初の状態に戻せる最小手数を
「神の数字(God's Number)」と呼ぶそうです。
1981年には52回だった神の数字は、
2007年に大学の博士らにより26手であると発表されます。
2010年、米グーグル(Google)の支援を受けた国際研究チームが、
当時のスーパーコンピュータを駆使して、神の数字が20であると発表。
ここまで来ると、人智を越えています(汗)
もう、コンピュータ自身が神の領域なのかもしれません。

2011年6月。日本最速スーパーコンピュータ「京(けい)」完成。
計算速度が毎秒1京回(10ペタフロップス)に及ぶことから名が付けられましたが、
いや~どれぐらい凄いのか、数字だけではチンプンカンプンです。
創薬シミュレーションで、今まで3年かかった検証が3日で終わると言います。
病気に苦しみ悩む人にとって、時間は切実なモノです。
まさに「京」は、神の仕業です。
しかし…

2012年最少手数部門で、岡山友昭さんが20手で優勝。
神はコンピュータではなく、人間に宿っていました。

しかし、最速や最小手数に拘らず、こつこつキューブを回せば、
認知症や手先を使う事で、老化防止にも繋がると言います。
そっちの方が、きっと神の領域のような気がしますよ。

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| 1980年(昭和55年) | 10:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和45年]チャールズ・ブロンソン男の領域、マンダム。

ブロンソン

この時代、無骨な男は、我を通しすぎて失敗する事が多いですね。
自分の信念を曲げられないばかりに、相手の意見を受け入れられません。
無骨を辞典で調べれば「洗練されていないこと。無作法なこと。」
更には、「役に立たないこと。才のないこと。」とまで、書いてあります(汗)
無骨者は、世間一般からは悪いイメージしか無いようです。

しかしその昔、「人間無骨」の異名を持つ十文字槍で、
天下の織田信長から寵愛を受けた武将がいました。
戦場で「鬼武蔵」と呼ばれた森長可(もり ながよし)です。

戦場のみならず、森長可の勇ましい逸話は多く残っています。
織田家臣団の奉公人を、些細なことで、怒りに任せて槍で突き刺すは…
戦で、度々の命令違反や軍規違反はなんのその…
無骨にして無頼で有りながら、何故か軍律に厳しい信長から
重い処分は、一度も受けていません。
戦が激しい時代だからこそ、こんな無骨者が重宝されたのでしょうか?

私が子供の頃の大人たちは、どこかそんな無骨な姿を良しとしていました。
無骨はある意味、男らしさの象徴のように感じていました。
男が化粧品を付けるなんて、あり得ない話です。
しかし、高度成長していく中で、無骨な男たちが、周りの目を気にし始めます。
まずは整髪料から、化粧品が男を粧(め)かすようになりました。

不良と呼ばれた男たちは、大抵リーゼントです。
無骨さが売りの「柳屋のポマード」か「丹頂のチック」で固めるのがステータス。
その後、新鮮さや若々しさをイメージして、資生堂から「MG-5」登場。
日本初の「本格的男性化粧品」ブランドとして、ヒットします。

MG-5の登場で、チックは売上を激減していきます。
無骨なメーカーの丹頂は、消えてしまうのでしょうか?
二枚目男優を起用し、中性的な清潔感のCMが多くなった中で、
丹頂は、野性的な風貌のチャールズ・ブロンソンを起用します。
1970年(昭和45年)4月。男臭さを前面に押し出した「マンダム」発売。



色黒で皺の深いブロンソンが、顎に手を当てて、
「ううう~マンダム」と呟きます。

無骨さが影を潜めたとはいえ、くすぶっていた無骨の心に火を付けました。
マンダムは大ヒット。倒産寸前の丹頂は蘇ります。

「mandom」とは、Man Domainの略で、「男の領域」を意味しています。
当時、子供でしたけど、そのCMを見る度、ブロンソンの真似をしては、
「ううう~マンダム」とタフな男を気取って、叫んでいましたよ。

時代と共に男のイメージは変わっていきます。
1978年。GATSBY(ギャツビー)発売。最先端のオシャレを若者へ。
1989年。LUCIDO(ルシード)発売。さわやかな男のたしなみへ。
無骨な男の化粧品ではなく、老若男女を問わないコンセプトに変わりました。

男の領域(Man Domain)の略だった「mandom」が、
今や、爽やかにHuman & Freedomの略です。

無骨を貫くのは、難しい…。

難しいからこそ、出来ない人が
負のイメージを付けたがるのかもしれません。

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| 1970年(昭和45年) | 15:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和47年]札幌オリンピック、金銀銅の日の丸飛行隊。

日の丸飛行隊

県内には、航空自衛隊・岐阜基地があります。
毎年、各務原市で開催される航空祭の最大の見物は、
何と言っても「空のアクロバットショー」ですね。
音速で飛び交う鮮やかな機体を間近に見れば、誰でも憧れてファンになります。
空を自由に飛ぶこと、そして誰よりも速く飛ぶこと…
声も掻き消えるような轟音に驚きながら、
空いっぱいに描かれたスモークの航跡は、まるで虹を架けているかのようです。
その空を駆け抜ける憧れの正体は、蒼い衝撃…
ブルーインパルス(Blue Impulse)と呼ばれた飛行隊です。


子供の頃、白銀の空をひたすら高く、そして…遠くに飛んで、
日本中を感動の渦に巻き込み、歓喜させた飛行隊がいましたね。

1972年(昭和47年)2月。札幌で冬季オリンピック開催。
スキージャンプ70m級で、1位・笠谷幸生、2位金野昭次、3位・青地清二。
日本人が、冬季オリンピックで初めて、金銀銅の表彰台を独占しました。

「日の丸飛行隊」の名で、新聞やテレビが大大的に報道をしていました。

子供で、オリンピックの凄さを実感できなくても
「日の丸飛行隊」の名だけは、しっかり覚えています。
当時の子供にとって、飛行機…そして空への憧れは、
きっと、今の子供たちの何倍も強かったように思います。


敗戦するまでの日本は、他国が脅威を抱くほどの航空大国でした。
しかし、戦争に負けると、その航空技術はGHQ…所謂アメリカに全面禁止されます。
現存飛行機は、全て破壊。戦前の航空機資料は、全て没収。
大学の授業から航空力学の科目まで取り除かれ、
製造する日本の重工業は、すべて再起不能にさせられました。
まさに、日本は翼を完全にもがれ、飛行隊はその歴史から姿を消しました。

1952年(昭和27年)。日本に主権が戻ると、一部飛行機の運航・製造が解除されます。
1956年(昭和31年)。GHQによる航空禁止令が全面解除。
1962年(昭和37年)。戦後、国産初の旅客機YS-11初号機ロールアウト。
1965年(昭和40年)。YS-11量産一号機納入。
敗戦から20年。日本人の手で、日本の空を…遂に翼を広げる事ができました。
しかし、YS-11はあくまでも旅客機です。飛行隊は組めません。



空を力強く、そして軽やかに編隊を組んで飛ぶ「飛行隊」のイメージを
きっと、札幌オリンピックの空に誰もが想像したのかもしれませんね。

札幌オリンピックのイメージソング「虹と雪のバラード」を
開催期間に良く聞きました。
雪の空に翔る虹のイメージが、
まさに、日の丸飛行隊でしたよ。


1971年(昭和46年)。オリンピック前年、国産でマッハを越え練習機T-2初飛行。
1976年(昭和51年)。T-2を含む25機体制で、正式に第21飛行隊結成。
遂に国産の翼が編隊を組みました。実に長い道のりです。

そして…私が、各務原の空で見たあの青い稲妻は…T-2。
航空隊中の航空隊と呼ばれた「ブルーインパルス」の編成機体です。

日本人の手で、日本の空を…。

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| 1972年(昭和47年) | 23:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和47年]一袋20円。カルビー仮面ライダースナックカード。

仮面ライダーカード

小学生の息子は、ポケモンが大好きです。
私の息子に限ったことではなく、大抵の子供は大好きですよね。
本屋に行き、どうしても欲しい~と、せがむポケモンの攻略本のなんと分厚いことか(汗)
何百体もいるポケモンを、ひとつひとつ覚えようとします。まるで図鑑です。
その集中力を勉強に使ってくれたら、どんなに親としては嬉しいことか…(泣)

「ゲームばかりせずに、外で遊んだら」
今時の子供に対する親の小言の一つです。
しかし、遊びに行く先はゲームセンター…。
「ムシキング」「恐竜キング」…ゲーム機に100円玉を入れるとカードが1枚。
画面で繰り広げられているバトルゲームは上の空。カード集めが、目的です。

「無駄なモノばかり買って~」と、小言を言いたいところですが…
カードを専用アルバムに入れ、眺めている息子の後ろ姿を見ていると
私の子供の頃の姿と、重なって見えましたよ。


1971年(昭和46年)4月。放送を開始した「仮面ライダー」は、
瞬く間に子供の心を虜にしました。
翌年、昭和47年4月。カルビーから仮面ライダー スナック発売。
そのお菓子には、仮面ライダーカードが1枚付属していました。
プロマイド要素が有りながらも、見栄えの良いヒーローが主体ではなく「怪人」。
ナンバリングされたカードは、通番でどうしても集めたくなります。
裏面のちょっとした解説が、図鑑要素を表しています。
更に、ラッキーカードを手に入れると、
レアな「仮面ライダーアルバム」がもらえるんです。
まさに今の子供たちが、ポケモンやムシキングにはまる要素がてんこ盛りです。
親としては、「無駄なモノ」と、闇雲に息子を怒れませんよ~(泣)

仮面ライダーカード2

仮面ライダースナック…いや、仮面ライダーカードは、本当に大人気でした。
お正月、お菓子屋さんに行くと、お菓子屋の親父さんが
タダでお菓子をやるから、好きなだけ持って行け~と言うのです(笑)
子供にとってお菓子は大好物、タダでもらえるなんて、嫁入りの菓子巻き以来です(笑)

そのお菓子こそ、「ライダースナック」でした。
一袋20円、段ボール一箱に50袋、当時は消費税など無いから、1000円です。
お年玉を貰った子供が、カードだけ取って、お菓子をそのまま置いていったとか。
カードの無い「ライダースナック」に、もう商品価値は無いって事ですよね(汗)
友人数人で、自転車のカゴに入れられるだけ入れて持って帰りましたよ。

来る日も来る日も、ライダースナックです(笑)
沢山あるから、親は別のお菓子をくれません。
ライダースナックが無くなるまで、死にものぐるいで食べたのを覚えています。

そんな、カードだけを取って、お菓子を捨てる子供たちがその後、急増していきます。
学校では「ライダースナックをきちんと食べなさい」と指導もありましたが、
発売元がカルビーなだけに
「止められない、止まらない」んです(笑)


大きな話をすれば、国対国の外交も、カードをたくさん持った方が優位に立てます。
仮面ライダーカードはまさに、子供の外交体験でした。
クラスで影の薄い子供が、持ってるカードの多さで人目を引き、
ダブったカードで、持っていないカードと交渉もできました。

めんこの時代から脈々と続く、
学校では、教えてくれない人との関わり方です。
決して、無駄ではありません。

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| 1972年(昭和47年) | 15:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和49年]一番大事なモノは?山口百恵「ひと夏の経験」

山口百恵

名も無き普通の人が、ある日突然、見上げた夜空の星のように輝きました。
70年代、テレビの中は、キラキラ輝くスターがいっぱいでしたね。
その輝きを見た子供たちがまた、同じ道を歩もうと番組に参加しました。
1971年(昭和46年)10月から放送された「スター誕生!」です。
本当にたくさんのアイドルが次から次へと登場しました。


毎週、番組に登場するスターの卵は、どこか素人臭くて…(汗)
おいおい…本当にこれでスターになるつもり~と、
口うるさい審査員として、見るのも楽しみでした。

不思議なモノで、この「スタ誕」を見続けていると、
誰でもスターになれそう!!な勘違いをするんですよ。
なにせ、私の妹も実は、ピンクレディーに憧れて、
学校の友達とオーディションを受けに行きましたよ。
「これからスタ誕に行ってくる~」って、
おいおい…近所のおつかいじゃ無いんだから~(笑)
軽過ぎて、結局、落ちて帰ってきましたけど…(汗)

1973年(昭和48年)5月。スタ誕生から一際大きく輝いた星が生まれました。
「としごろ」でデビューした山口百恵さんです。
しかし、星はいきなり大きく輝きません。
1973年9月、第二弾「青い果実」で、大胆な歌詞にイメージチェンジ。
1973年11月、第三弾「禁じられた遊び」発売。光りはまだまだくすぶっています。
1974年3月、「春風のいたずら」発売。星はこのまま消えるのでしょうか?



そして…デビュー1年後の1974年6月。
「ひと夏の経験」発売。曲の出だしが、時の人々を驚かせましたね。

あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ

ええええ~何々…何くれるの~。
子供ながら「大切なモノ」って何~??と、一生懸命考えましたよ(笑)
しかし、世の大人たちは、この歌詞に非難囂々です。
あどけない少女が言葉にするには際どすぎるとひんしゅく。
その論争も話題になって、曲は大ヒット。
百恵ちゃんは、満天の夜空に一際大きく光り輝きました。

その昔、日本に明治と言う光りが見え始めた頃…
土佐で生まれた無名の浪士が、大きな輝きになろうとしていました。
坂本竜馬は、大政奉還の大仕事を成し遂げ、
明日の日本を夢見て、「新政府綱領八策」を記します。
8項目に亘る日本の未来は…最後の「○○○が自ら盟主となり行う事」で終わります。

伏せ字にされた「○○○」とは、いったい誰のことでしょう?
日本の未来を担う大事の人とは、誰なのでしょう?当時の人々は、考えました。
しかし、「新政府綱領八策」起草から数日後、坂本竜馬は暗殺されます。
その「○○○」は、今も謎のままです。

「大切なもの」「○○○」には、明確な答えは無いのかもしれません。
それを聞いた人…読んだ人が、考えて考えて考えて…


見つけ続けること…考え続けることが大事なのかもしれません。

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| 1974年(昭和49年) | 22:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和43年]人生、夢を語ろうよ~タカラ「人生ゲーム」

人生ゲーム

小学生の頃、友達3人と良く軍人将棋で遊びました。軍人将棋とは、いわゆる通称で、正式には行軍将棋の事です。ボードゲームの部類に入る軍人将棋は大抵、室内で遊ぶものですが、当時の子供にとって、遊びの中心は外です。自室に閉じ籠もって遊ぶ今の子供達と違って、私の子供時代は、室内ゲームですら外に持ち出して遊ぶ、なんとも大らかな時代でした。

農家だった友人の家の縁側は広く、借家住まいの我が家と違って、その広さを羨ましく思ったものです。そこに薄っぺらな紙で出来た軍人将棋の盤面を広げ、さぁ戦闘開始。裏返しにした大将・中将・少将・大佐・中佐・少佐・大尉・中尉・少尉・騎兵・工兵・軍旗・タンク・飛行機・地雷・スパイの各駒を配置します。一手ずつ交互に駒を進め、升目で駒同士がぶつかれば、駒の強弱によって一方が盤面(戦場)に残ります。最終的に敵の本陣を占領すれば勝負が決まり、サクサク進めれば、15分ほどで終わる手頃なゲームでした。
何度も何度も対戦していると、、相手の駒の配置の仕方や攻め方が分かってきます。人の性格が垣間見えて、人間観察するのも楽しかったですね。

その後、将棋でさえ外で遊ぶ子供を、どっぷり家の中に閉じ込めるゲームが発売されました。1968年(昭和43年)9月。タカラより初代「人生ゲーム」発売。軍人さんだった駒が、現代風な自動車の駒に変わり、プレイヤーは結婚をし、伴侶や子供までその自動車の駒に乗せる事ができました。そして、勝ち負けは、相手を盤面から排除する戦闘から、どれだけ多くのお金を稼いだか?どれだけ出世したか?で勝負が決まる、裕福になれば勝ちと言う、今思えば何とも生臭いゲームです(笑)

その人生ゲームには、多くの紙幣や債権を必要としました。ちょっとした風で、飛んでしまう為に、どうしても家の中でやらないと遊べないんです(汗)そして、基本的に二人で対戦する軍人将棋とは違い、何人とでも遊ぶ事が出来ました。マスには「世界旅行に出発する」「金鉱発見」「北極探検にいく」など言葉が並んでいます。日本以外の世界を知らない当時の子供にとって、なんともスケールの大きい、夢心地にさせてくれるゲームだったことでしょう。

と、同時に、現実も教えてくれましたね(笑)
駄菓子屋で売られていた軍人将棋は、当時200円~300円で買えました。お小遣いを溜めれば買えない金額ではありません。しかし、人生ゲームは定価1700円です。到底子供の力だけで買える代物ではありません(笑)人生の厳しさを知りましたね(汗)

人生ゲーム発売当初のキャッチコピーは「人生、山あり谷あり…」
まさにその通りなんです(笑)

人生ゲーム初代

元々、初代「人生ゲーム」は、米国で印刷業を営むミルトン・ブラッドレー氏が考案した「THE CHECHERD GAME OF LIFE」が元となっています。元が米国製だったせいでしょう?「潜水して鯨をつかまえた」「ミイラのコレクションを博物館にあずけた」など、マス目の表記には、当時の日本人の感覚からは生まれない独特のテイストがありました。その不思議な人生のシミュレート感覚もまた、子供心をワクワクさせた魅力の一つだったように思います。

1983年(昭和57年)。米国版の翻訳を元とせず、タカラから日本語のオリジナル版発売。物理学者・先生・弁護士といった職業に代わって、デザイナー・パイロット・アイドルスターといった世相を反映したカタカナ職業となります。マス目の表記も「お世話になった人達にお歳暮を送る」「先祖代々の土地を売る」などなど。ふむふむ…良くある現実的な人生の一コマが並んでいました。

1991年。「人生ゲーム・平成版III」発売。そのマス目には、「ノーパン健康法で体質改善」(笑)「イタメシフィーバー、ティラミスを1000個衝動買い」などなど。わわわ…耳が痛い人生の一コマが並びます(汗)

1999年。「人生ゲーム・平成版1999」発売。そのマス目は1999年にふさわしい、まさに世紀末(汗)「子供に届いた地域振興券を使ってしまい、後でばれる。子供ひとりにつき3000万払う。」「だっちゅーのをちょろっとやって、300万ゲット。」何、何、何~~ど、ど、どんな人生の一コマでしょう~あはは(汗)

時が経つにつれ、夢見る子供は、現実を知る大人へ成長するものです。分かってはいますが、人生なんだからさぁ~夢を語ろうよ~夢を…。

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| 1968年(昭和43年) | 21:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和20年]この島を守る一日の重み。硫黄島の星条旗。

硫黄島

私は、乙女座です(笑)子供の頃、夏休みが終わりに近づく頃、
家族に、誕生日を祝ってもらいました。
もうすぐ、二学期が始まる時期の誕生日です。裏寂しい気持ちでしたね。
更に寂しい思いにさせられたのは、その前に終戦記念日を迎えるからです。

終戦から二十数年頃…。
当時、8月15日の終戦日に合わせて、多くの戦争映画や終戦特集が、
新聞記事欄やテレビ番組で放映されました。
戦争を知らない世代ではありますが、どこか戦争というモノを
文字や映像を通して、肌で感じて育ってきたような気がします。

しかし、そんな感傷的な事よりも、最悪な心配事は、
遊び呆けて、夏休みの宿題が、大半残っていることです(汗)
あれほど親に「大丈夫なの?」と言われながら、後回し後回しです(笑)
後、2日?いや…後1日、時間があれば…
と、幾つの夏休みを過ごしたことか…(泣)


終戦が半年後に迫る太平洋戦争末期、1945年。2月19日。

アメリカが5日で終わると思っていた戦争を
36日間、守り抜いた日本人たちがいました。


東京の南約1,080Km。東京都小笠原諸島に属する小さな島…硫黄島。
圧倒的戦力のアメリカ海兵隊が、硫黄島奪取のために上陸作戦を敢行。
同年3月26日。栗林忠道中将以下、最後の総攻撃を仕掛けるモノの玉砕。
36日間に及ぶ硫黄島の戦いは、終結しました。

太平洋戦争において、アメリカの戦死傷者が、日本軍を上回った最大の激戦地です。
深夜、この戦いを題材にした「硫黄島からの手紙」と言う映画を静かに観ました。



日本・アメリカ合わせて5万に及ぶ死傷者を出した硫黄島の戦いで、
その36日間の一日とは、どんな長さだったのでしょう…?
映画を観ながらそう思い続けていましたね。

今を生きる私の一日と、意味に違いはあるのだろうか?
映画の中で、渡辺謙が演じる栗林中将が叫びます。

我々の子供らが、日本で!!
一日でも長く!! 安泰に暮らせるなら、
我々が、この島を守る一日には、意味があるんです!!
と。

栗林中将が守りたかった一日は、
日本人が、一日と言う時間を長らえるだけの一日ではありませんでした。

同刻、アメリカでは、情報統制された日本とは違い、
硫黄島の戦いが、新聞を通して、日々刻々と報道されていました。
最強を誇った海兵隊員が日本軍に、次から次へと倒されている事実を
アメリカの人々は、正確に伝えられていたのです。
5日で終わる戦いが、まだ落ちない、まだ落ちない…まだ落ちない…
そして、36日後…硫黄島の摺鉢山の頂上に、星条旗が立ちます。

「硫黄島の星条旗」と呼ばれたこの写真は、
同年、権威のあるピューリッツァー賞・写真部門を受賞します。
そして、戦争に疲弊したアメリカ国民を高揚させるために利用されたのです。
星条旗を立てた6人の海兵隊兵士は、英雄となりました。
英雄として祭りあげなければいられないほど、
アメリカの人々は、日本人を脅威に感じたのでしょうね。

一日でも長く!! この島を守る一日には、意味があるんです!!

「硫黄島の星条旗」は確かにアメリカ国民の高揚につながったでしょう。
しかし、星条旗を結わえたあのポールは…
戦場にあった、日本軍が使用していた水道管でした…。

日本国民に…アメリカ国民に問いかけた一日の重み…
一日一日を大切にしたいですね。

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| 戦中・戦後の時代 | 20:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和60年]ミスしたら終わり。スーパーマリオブラザーズ。

スーパーマリオ

仕事の覚えはじめは、要領も悪く技術も無く、
それほど難しくない仕事も、難儀だったのを覚えています。
下端の簡単な仕事を、オヤジである上司(笑)に、繰返し繰返し指示されました(汗)
ストレスが溜まると、決まって同僚の家で、酒を飲みながらゲームをしましたね。

タタン、タッタ、タッ、タァーン~♪♪

1983年に発売された任天堂ファミリーコンピュータ…略してファミコン。
1985年9月13日発売の「スーパーマリオブラザーズ」で、大ブレークしました(笑)
大魔王クッパに掠われた、キノコ王国のお姫様ピーチ姫を助け出すために、
マリオとルイージの兄弟が、大冒険をするゲームです(笑)

ステージを進めるごとに難易度が上がり、なかなか先へ行けません(汗)
タッ、タッ、タッ、タラララ~♪♪と、マリオはスタート地点へ。
ちょっとしたミスを何度も何度も克服しながら、
クッパの居る城砦に辿り着いた時の喜びは一塩ですよ。




今のゲームなら、どこでもセーブのコンテニューがあります。
今までの道程と時間を無駄にしたくない人には、どこでもセーブは便利です。
しかし、マリオの大冒険には、それがありません。
ミスして落ちたら、オワリ。振り出しに戻るんです。
これが、スーパーマリオブラザーズの緊張感であり、面白さかもしれません。

マリオを開発した宮本茂さんは言います。
…アクションゲームというのは、
…難易度の高いところだけを遊び続けるとしんどいんですよ。
…多少自分が上手にできてしまうところも遊ぶから気持ちがいい。
…だから、途中セーブをいくつもつくるよりも、
…もう1回やさしいところから遊んでもらおうと。

人生、失敗する前にセーブできると良いかもしれませんね。
でも、セーブポイントから、やり直したところで、
それまでの技術・経験は、変わらないまま。
だったら、もう一度勉強をやり直そう~。
面倒に思える簡単なことを何度も何度も繰り返すうち…
人は知らずのうちに成長しているモノです。


16×16のドット絵だったマリオが、
今では「えっ!!こんな姿だったの?」と思えるほどのCGキャラに成長しました。

荒削りだった、ちょび髭オヤジは…(笑)
1本1本を積み重ね、全世界で4,024万本を売り上げました。
「世界一売れたゲーム」として、ギネスブックに登録されています。

そして、あのちょび髭オヤジは、今も多くの人に、
スタート画面に戻る楽しさを教えています。

オヤジに難題を賭けられるのも良いものです(笑)

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| 1985年(昭和60年) | 16:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和56年]竹の子族でE気持ち。ホコ天は僕らの天国。

竹の子族

7日ある一週間の内、2日も休むなんて…
週休2日制の職場が、馴染めません。
バブル景気が押し寄せる時期に、広告の世界に入りました。
景気が良いと広告は、必然的にその量を増します。納期を守るために、土日もありません。
量もさる事ながら、新米の私は手が遅く、やたら徹夜が続きましたね。
自営を始めた頃は、その日の生活費を稼ぐために
休むゆとりも無く働いていた…いや、動いていたように思います(汗)
貧乏性と言いますか?あはは(笑)
でもねぇ~そんな自分を嫌いじゃありませんよ。


子供の頃、学校は土曜日も授業がありました。
詰め込み教育と呼ばれた時代です。今の子供たちと比べると、
日本全体の勉強時間は多かったように思います。
だからかもしれません。休んで立ち止まることができないんです(汗)

そんな状況を過酷に感じ堪えきれなくなった10代の若者たちが、
1980年(昭和55年)初め、現実逃避をするかのように
原宿の歩行者天国に集まり始めました。
常識外れの赤青黄色・ピンク…ど派手な衣装を身にまとい、
持参したラジカセからは大音量のディスコサウンド。
ステップダンスを踊る少女少年たちを、
大人たちは、あきれ顔で「竹の子族」と呼んでいましたね。




1981年(昭和56年)3月。竹の子族として活動していた
沖田浩之が「E気持」でデビュー。
「3年B組金八先生」にも出演し、俳優としても人気がありました。

…常識なんてぶっとばせ
…仲間同志さ手を貸すぜ
…大人は昔の自分を忘れてしまう生きものさ
…ついてこいよ ついてこいよ
…ABC ABC ハーン E気持

大人は昔の自分を忘れてしまう生きものさ。

1955年。石原慎太郎の小説「太陽の季節」に由来した
サングラスにアロハシャツ、髪は慎太郎カットの「太陽族」が流行。
1964年。頭にハンカチを巻き、ロングスカート。
腰から長いリボンを垂らして、銀座みゆき通りに集まった「みゆき族」が流行。

昔の自分を忘れてないか~大人たち??
と、歌が叫んでいますね(笑)

詰め込み教育の反省から、ゆとり教育へ。
子供は、今土曜日をしっかり休んでいます。
週休二日の会社は、好印象を持たれます。

忘れてないかぁ~大人たち!!
子供の頃、土曜日が半日授業でも、残りの半日が充実していました。
会社が土曜日出勤でも、自分を磨く時間が増えて満足感がありました。

時間がゆとりを与える訳じゃない…
充実と自信がゆとりを与えてくれるような気がします。

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| 1981年(昭和56年) | 21:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和52年]通算本塁打756本の世界新記録を樹立、王貞治。

756本本塁打

ON砲と呼ばれた王貞治や長嶋茂雄が大活躍する時代…、
石コロの転がる公園で…いや、空き地で
誰もが野球をし、バッターボックスに立つと一本足打法を真似しました。
漫画「巨人の星」の影響で、ピッチャーになると、
誰もが「大リーグボール!!」と叫んで、何の変哲もない直球を投げていました(笑)
野球…とりわけ、「巨人軍」が子供たちの憧れの時代でしたね。
しかし私は、野球の楽しさを知りつつもアンチ巨人軍です。


私が生まれた1961年、名監督と呼ばれた川上哲治が巨人の監督となります。
1965年から始まる怒濤の連勝街道は、1973年まで続き、
V9(ブイナイン)と呼ばれる、9年連続日本一の黄金時代を作りました。

父親は、大がいくつあっても足りないほどの巨人ファンです。
平日の夕飯タイムは、一家に一台しか無いテレビが、巨人の野球中継に変わります。
夕飯タイムですよ~。子供にしたら、その裏番組はアニメタイムです(泣)

強い者が圧倒的な強さで勝つ!!それが、父親の巨人ファンとしての理由です。
勝ち続ける限り、強くあればあるほど、観たいアニメは遠のいて行くんです。
私が、アンチ巨人軍になったのは、必然だったのかもしれません。


1974年(昭和49年)、中日ドラゴンズに優勝を阻まれ、V10を逃します。
1975年(昭和50年)、前年に引退した長嶋茂雄が、巨人軍の監督に就任。
中学生だったこの当時、夕飯タイムはバラエティー一色となりました。
「カックラキン大放送!!」・「欽ちゃんのドンとやってみよう!」を観て笑っていました。
この年の巨人は、球団史上初の最下位を経験するほど、負けが混んでいたんです。

CMになると父親は、野球中継にチャンネルを変え、得点経過を見ます。
負けていると、そのままチャンネルは元のバラエティーへ。
アンチ巨人だった私は、CMの度に、ちょこちょこチャンネルを変える父親を見て、
いじましいとさえ思いましたよ。(笑)
1976年(昭和51年)、巨人は、前年の最下位から一転して、
日本シリーズを逃すものの、リーグ優勝を果たします。
1977年(昭和52年)、2年連続のリーグ優勝。
9月3日。王貞治がハンク・アーロンを抜き、
通算本塁打756本の世界新記録を樹立。

父親の狂喜乱舞は、言うまでもありません。テレビにかじり付いていました。



756本…。その数字の重みは、巨人に関心の薄い私にはよく分かりません。
9月5日、王貞治は、初の国民栄誉賞受賞。
国民栄誉賞の目的は、「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに
顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えること」と定義されています。

756本とは、讃えられるべき数字の重み。

翌年、当時人気絶頂のピンク・レディーが「サウスポー」を歌います。
社会現象となり「流行」を感じて、私もその重みの凄さを知りましたね。

756号本塁打を打った時、王貞治の両親が後楽園球場に招待されていました。
両親にカーネーションのプレートを渡す王貞治。
その姿に、球場のファンから「親孝行も日本一」の声が飛んでいました。

その後の巨人軍は、父親が求めた強い巨人ではなくなりました。
しかし、今もなお、父親は巨人を見詰め続けています。

もしかしたら…強いだけで巨人が好き!!…ではなく、
きっと、きっとですよ。父親は…
戦中戦後、「楽しみ」の希薄なその時代に、
巨人軍の野球を通して「楽しみ」を
教えてもらっていたのかもしれません。


子供の頃、石コロの転がる公園で野球をしました。
その時、父親は、欲しいと言わないのに、真新しいグローブを買ってくれました。
今思えば、野球をする事の楽しさを後押ししてくれたのは、父親だったんですね。
親孝行してないなぁ~(汗)

「親孝行も日本一」それこそ、讃えられるべき栄誉です。

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| 1977年(昭和52年) | 16:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和50年]おはよう720で、ビューティフル・サンデー。

田中星児

恥ずかしい話、歳を取ると世界を広げるのは難しいモノです。
利点であるはずの経験や知識が、知らない世界への扉を閉ざしてしまいます。
しかし、子供の頃はその世界が、自分の意志とは関係無く接してきますね。
時にオドオドしたり、ワクワクしたものです。

小学校から中学校に進学すると、世界は変わります。
町内から校区へ。親としか行ったことがない見知らぬ隣町から
今まで接した事のない個性や容姿を持った子供が集まってきます。
小学校の頃とは勝手が違う、中学と言う世界を知って、
実は楽しいと思いましたよ。


1975年(昭和50年)9月。TBS系列で朝の情報番組「おはよう720」スタート。
番組コーナーの「キャラバンII」では、リスボンから東京70,000kmと題して、
車に乗り、ユーラシア大陸を横断する企画が放送されました。
授業で習う世界史や世界地理に出てくるような風景写真やデータではなく、
レポーターと現地の人々が触れあう「生の世界」がそこにありました。
インターネットの無い時代です。
自分が生きている今この瞬間に、世界の多くの人々が、
同じように生活している事をまざまざと知りましたね。




番組が始まる3年前、1972年に発売され、
瞬く間に世界のチャートを駆け巡った曲があります。
イギリス人のダニエル・ブーンが作詞作曲したこの歌を、
当時の日本人は知りません。知らぬ世界の事でした(汗)あはは。

リスボンから出発したキャラバン隊は、冷戦の象徴と言われた
分裂時代の東西ドイツに入ります。
この頃から流れ始めたのが、そう…「ビューティフル・サンデー」です。

ハイウェイを快走する時、悪路を走る時…。
当時の世界経済情勢からみて、貧しい身なりの子供たちが遊んでいるバックで、
「ビューティフル・サンデー」が流れていました。
例え貧しそうに見えても、笑う子供たちの笑顔は
朝の光のようにキラキラと輝いて、心の裕福さを感じました。


…さわやかな日曜 降りそそぐ太陽
…ヘイヘイヘイ イツア ビューティフル・デー
…出かけよう彼方(かなた)へ 歌おう高らかに
…ヘイヘイヘイ イツア ビューティフル・デー

ちょっと脳天気で弾けた感じの曲ですが、
世界を知る事は、決して恥ずかしい事じゃない。
もっと肩の力を抜いて行こうよ!!きっと素晴らしい サンデーが待ってるよ。
と、教えてくれているようです。

番組のエンディングで、見城美枝子さんや田中星児さんが
満面の笑顔で手を振り、こう背中を押してくれました。

「今日もお元気で、いってらっしゃい!」と。
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| 1975年(昭和50年) | 17:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[平成24年]スポーツカー再び!!トヨタ86・スバルBRZ。

トヨタ86

小学校の頃、我が家にマイカーが来ました。
記憶に乏しくて、どんな車だったか? はっきり覚えていません。
覚えていることと言えば、360ccで軽だった事。
親戚の住む神戸へ遊びに行き、郊外に住んでいた親戚の家まで、多くの坂道を越えた事。
4人乗りの車重は重くて、その坂道を登り切れるかどうか?
しきりに父親が心配していたこと(汗)
4人乗った車内は狭くても、不思議にその狭さが心地よかったこと。
当時は子供でしたからね。狭くても十分ですよね。それが、車との出会いでしたね。

月日が経ち、私が免許を取る頃には、車はマイ(ファミリー=家族)カーから、
家族の一人一人が乗る、本当のマイカーになっていました。
憧れはやはり、スポーツカーです。
トヨタセリカ、日産スカイライン等の
GTモデルが憧れの的です。
GTエンブレムは、スポーツカーの証でした。


「どこにでも行ける」車の到来は、
「どうせ行くなら速く!!そして、カッコよく!!」

スポーツカーの持つステイタスが、当時の若者にすんなり溶け込んでいきました。
安い給料に見合わないローンを抱え、下手をすると、
数日ごとに満タン決めてプロロロ~んです(笑)
リッター4だの5だのと、低燃費の自慢話を良く聞きましたよ(笑)

その後、車は「どうせ行くなら豪華に行く」に変わります。
ハイソカーの登場です。

そして、アウトドアな4WDが人気となり、ワンボックスカーが人気となり…
「どうせ乗るなら経済的に」「どうせ乗るなら、環境に優しく」…
車は、知らず知らずのうちに、格好いい乗り物から変化してしまいました。



かろうじて、走る格好良さを教えてくれたのは、ゲームや漫画でした。
峠をグリグリドリフトしまくるスプリンタートレノ・AE86の「頭文字D」
度胸一発、公道最速走行、フェアレディZ・S30改の「湾岸MIDNIGHT」
日本の市販車から、世界のスーパーカーまで乗れる
プレイステーションゲーム「グランツーリスモ」シリーズ。

2012年(平成24年)4月。トヨタとスバルから久しぶりにスポーツカー出ました。
当初は30代に、スポーツカーを楽しんで欲しい。というコンセプトでしたが、
蓋を開けると、「GT」エンブレムのステータスを肌で知ってる40~50代に大受けです。



そして、SUBARU BRZ GT300のプロモーションムービーです。
CGでは語り尽くせない実写の凄さが分かります。格好いいですね(笑)
でも、思うんです。グランツーリスモのオープニングって、
スポーツカーが希薄になっていく時代に、CGという技法で、
走ることのスピリッツを保持してくれていたんだと…


グランツーリスモの正式名称は「GT(Gran Turismo)」ですから…

スポーツカーの系譜が、ずっと続いて欲しいですね。

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| 2000年代(平成12年以降) | 18:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和51年]浜田省吾「もうひとつの土曜日」。漢の条件とは?

浜田省吾

職場のある大垣市を少し東に車を走らせれば、関ヶ原町-。
そうです。あの徳川家康vs石田三成が戦った「天下分け目の関ヶ原」です。
「勝者=正義」。敗戦の将とは悲しいかな、勝者から悪評の的となり、
弱者のレッテルを貼られるモノです。
1600年10月。三成の西軍は、敗れます。
西軍の大将・石田三成は、本当に弱き者だったのでしょうか?
20万石の大名が、250万石の家康に立ち向かう姿が、弱き者の姿でしょうか?



1976年(昭和51年)4月。「ロック=英語」という既成概念に疑問を持った
ミュージシャンが、「路地裏の少年」でソロデビューします。
浜省(ハマショー)の愛称を持つ浜田省吾さんです。

既成概念の壁とは、高いモノです。その後3年の間、印税収入も少なく、
生活することも音楽活動もままならなかったと言います。
ロック志向なのに生ギター1本で全国を巡業する姿は、弱気者の姿でしょうか?
日本語による歌詞や歌唱にこだわった浜田省吾…。
「巻き舌で、日本語を英語っぽく歌いたくない」と語った浜田省吾…。

しかし、彼の拘りは、当時の若者に徐徐に響いていきます。
尾崎豊、福山雅治、桜井和寿…彼の音楽に影響を受けています。
芸能界・スポーツ界の中にも多くの信者が居ますよね。

信念に真っ向勝負する浜省(ハマショー)は、漢(おとこ)だと思います。
彼の歌に出会えたこと、私の人生の宝です。
名曲の多い浜省(ハマショー)の曲の中で、
「もうひとつの土曜日」は、大好きな曲の一つですね。

「土曜日」は本命の彼のために…
もし、僕だったら君に「もうひとつの土曜日」が用意できるんだ。

この曲は、そんな解釈でいいのかなぁ~?

石田三成は、主君である豊臣の治世を継ぎ、再び戦乱の世にしたくない…と、
大谷吉継に固い信念を伝えます。そして、吉継は言います…
「親友の、おまえを見放すわけにはいかない」と。

敗戦後、三成の居城・佐和山城が落城した折、誰もが悪意に満ちた思いで、
三成が莫大な私財を蓄えていると思っていました。

しかし…

そこで見たモノは、板張りの壁・風情の無い庭・粗末な石積み…でした。
…「奉公人は主君より授かる物を遣いきって残すべからず。
…残すは盗なり。遣い過ぎて借銭するは愚人なり」

と、日頃語っていた三成の人間的な魅力を感じますね。

後に、あの水戸光圀は三成をこう評価しています。
「三成を憎んではいけない。
主君へ、義の心を持って戦ったのだ。
君臣の心得とすべし」
と。

時代に「if」は無いけれど、後世が三成の時代であったなら、
日本はどうなっていたのでしょう?
歴史は不思議なモノです。300年続いた徳川の世を終わらせたのは、
関ヶ原で西軍として敗戦した漢(おとこ)たちの活躍でした。
信義を貫いた石田三成もまた、漢(おとこ)だと思います。

石田三成の「もうひとつの土曜日」を見てみたかったなぁ~。

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| 1976年(昭和51年) | 13:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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天晴れ(アッパレ)日本!!たなびく旭日旗への思い。

旭日旗

両親は、戦時戦後を経験しましたが、
私は、第二次世界大戦を知りません。

ただ一点、過去を遡れば…今、思い出して見れば…

夏休み、故郷に帰省すると、おばあちゃんの家の仏間の上に、
軍服を着たお爺ちゃんやその兄弟の写真がありました。
高度成長期の子供でした。新しいものがどんどん溢れているのを感じていた時代に、
その仏間の風景は、どことなく異様な感じがしましたね。
「誰だろう~??」お婆ちゃんにその違和感と「戦争って何?」「どうして死んだの?」
の問いをどう伝えたかは覚えていません。

お婆ちゃんは、膝で、うとうとしている子供の私を覗き込みながら、
「こうしたかったんだよ」と言った趣旨の言葉を、
かすかな記憶の中で覚えています。


小学校の頃の学習雑誌には、「零戦」や「戦艦大和の解剖図」のような記事が満載でした。
敗戦した日本でありながら、これだけの高い技術で立ち向かった事を…
飛行士や艦長の活躍に、子供心を踊らせていました。
艦にたなびく旭日旗が、誇らしくさえ思いましたよ。

当時なら、帝国海軍の戦艦・空母・重巡・軽重…全部言えました。
今なら…あはは、戦艦までなら言えますね(汗)あはは。

いつの頃からだろう?中学・高校…
日本は、アジアに迷惑をかけた悪い国。負けたのだから、償うのが当たり前。
旭日旗=右翼。そんなイメージがどんどん膨らんだように思います。
日本の国旗を掲げる事や国家「君が代」を歌う事さえもいいのかどうか?
迷想する時代を過ごしましたね。

昨年、サッカーの試合で、応援のために旭日旗が振られる様子を韓国のアナウンサーが、
帝国主義を持ち込んだ…等々と騒いでいた記事を読みました。
更にオリンピックで体操選手のユニフォームが旭日旗をモチーフにして
軍国主義を象徴している…と抗議する記事も読みました。

戦争は断じて反対です。誰でもそう思っているはず。
でも、戦わなければイケナイ時に掲げた旗を…
その旗の元、戦う人々が守ろうとしたモノを考えると…

旭日旗の意味をしっかり見つめないとイケナイと思いましたね。

中央に赤丸の日本の国旗・日章旗。
そこから伸びる16本の光、十六条の旭日旗。
「天晴れ(アッパレ)」の意気込みを象徴した旭日旗は、
頑張る日本の旗印のような気がします


旭日旗の元、戦ったお爺ちゃんやその兄弟は、軍服姿で仏間に掲げられていました。
きっと、自分の膝に孫を乗せて、「大きくなったなぁ~」と
足のしびれを我慢しながら、笑いたかったのかもしれません。

第二次世界大戦。日本の戦死者は230万人。一般市民80万人。

守ろうとした日本は、
あなたたちが夢見た日本になっていますか?


2012年。中国・韓国との領土問題のニュースを日々聞くようになりました。
youtubeで見つけた動画は、 海上自衛隊 平成24年度観艦式予行の模様です。



小学校の頃、誇らしく思った旭日旗がなびいています。
彼らが何を守ろうとしているのか?
日本人として、いい加減な気持ちで接してはイケナイように思います。

2013年。天晴れ(アッパレ)日本。
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