日本大好き、昭和大好き。麦の子ブログ。

[昭和レトロ記事満載!!]生まれた日本、育った昭和の時代を見詰めた自分探しの旅へ。

2013年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2013年03月

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[昭和39年]夢の超特急「新幹線ひかり号」東京-大阪間開業。

新幹線開業

江戸時代、人は江戸から京都までの道程(約500km)を、五十三次して旅をしました。
川という難所を越え…時に空を見上げては、歩いて歩いて…
旅の終わりに待っているあの人を想いながら、15日間の旅をしていました。

明治5年9月12日、新橋駅-横浜駅間で、日本初の鉄道開業。
明治の文明開化の中で、旅の足は、人の足から蒸気機関車に変わっていきます。
明治22年7月1日、東海道線(新橋~神戸間)全通。
15日以上掛かった旅は、約22時間の旅となりました。

それでも、一日かかった長旅です。
疲れや天候の影響で、足取りの速さが変わる江戸の旅とは違い、
明治の旅の足取りとは、蒸気の煙次第です。ポッポー♪と、軽快に運んだことでしょう。
一駅一駅を蒸気に任せ、見る景色の全てが、美しく映ったに違いありません。

明治33年、鉄道唱歌・東海道編発刊。随時、他路線編が発刊され全6集・374番。
七五調のリズムも心地よく、沿線の情緒を歌った鉄道唱歌を聴く度に、
鉄道の旅を愛した、明治の人々の心の高揚感が伝わってきます。


そんな鉄道も、大正・昭和の時代に入り、近代化を推し進める日本にとって、
鉄道は大量輸送、高速輸送を実現する経済の大動脈となっていきます。
パワフルな蒸気機関車D51(デコイチ)は、大量に貨物を運び、
国産電車は、蒸気列車をしのぐスピードで人を運びます。
人と物が動くことで、お金が動く。まさに鉄道は経済力の象徴です。

そして、第二次世界大戦。
敗戦色が強くなった日本への爆撃目標は、もちろん鉄道です。
鉄道網を叩くことは、人と物の流れを止めること。その被害は甚大でした。
敗戦後の日本が、まずやらなければならなかった事、それは…鉄道網の整備。
経済を立て直し、世界に日本を知らしめる夢への一歩こそ、鉄道の復興でしょう。



1964年(昭和39年)10月1日。東京~大阪間、東海道新幹線開業。
世界初、日本初の言われた高速鉄道は、「夢の超特急」と呼ばれました。
時速210km/hで走行し、東京~大阪間を3時間10分で繋ぎます。
乗る者を圧倒するそのスピードは、まさに夢そのものです。
そして何よりも、敗戦した日本と日本人が、
世界で初めての高速鉄道技術をもって、
世界経済と再び対峙する姿勢を示した、
夢の実現の瞬間だったのかもしれません。


しかし、当時の子供達にとっては、反応は少し違います。
「夢の超特急・ひかり号」に、ヒーローと同じような憧れを感じていました。
子供達は、ひかり号のおもちゃが大好きです(笑)
そして、夢で憧れの存在だからこそ、その夢の高速鉄道を陰で支える、
黄色い新幹線「ドクターイエロー」に、(安全)神話を感じてしまうんですね。
滅多にお目にかかれない分、人の心に伝説を作り上げてしまいます。

「黄色い新幹線を見ると、幸せになれるらしい」
「走ってる黄色い新幹線を見たら、願い事をするといいよ」
まるで、「流れ星に願い事」のような伝説ですが、
この歳になっても、やっぱりこの「幸せの黄色い新幹線」伝説を信じています(笑)
新幹線が与えてくれた「夢」の心を、忘れられずに持ち続けているからでしょうか。

そして、新幹線開業当時から、車内で流れるチャイムの音色は、鉄道唱歌です。

明治の昔も、今も変わらない、鉄道で旅する心…。

どれだけ移動の速度が速くなっても、忘れてはいけない心があります。



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| 1964年(昭和39年) | 18:49 | comments:3 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和60年]日本電気(NEC)から、名機PC-8801mkIISR発売。

PC88

PCと表記すれば、パーソナルコンピュータの事です。
1960年代、コンピュータは企業や国、複数人が共有する大型の計算機でした。
1972年、パソコンの父と呼ばれたアラン・ケイが、
「個人のための理想のコンピュータ」を意味する
「パーソナルコンピュータ」の言葉を使用し始めます。

1970年代、コンピュータはマイコンと呼ばれていました。
マイコンの「マイ」は、「私の」ではなく、マイクロプロセッサの事。

マイクロプロセッサの登場で、個人でもコンピュータが購入可能になります。

1979年(昭和54年)5月。日本電気(NEC)から、PC-8001発売。
これが、今に脈々と続く、私とコンピュータとの初めての出会いでしたね。
このPC-8001から、マイコンは、
「パーソナルコンピュータ」と呼ばれるようになります。

しかし、出来る事と言えば、計算ぐらいなものです(汗)
漫画ばかり描いていた私にとって、簡単そうなBASICプログラムも難儀の一言(笑)
マイコン雑誌の巻末に掲載されたプログラムを、一行一行、手打ちするのが精一杯。
当時、FD(フロッピーディスク)は高価な代物です。
手打ちしたプログラムを、カセットデコーダーでテープに記録します。
ピーヒョロロ~と待つ事数分。正常にプログラムが走り、
真っ黒なディスプレーに映し出されたモノとは…

漢字は、表示ができません。単なる「■」だの「●」だの、「A」だの「B」だの、
アスキー文字を利用したゲームが、映し出されました(汗)
しかし、その単なるアスキー文字が、妙に想像力を描き立たせるんです。
怪物にも兵器にも見えます。
減り続ける赤い数字が、死を目前にした主人公にも思えます。
コンピュータの未来を感じつつも、どこかまだ、敷居が高いのも事実でした。
パーソナルと呼ばれるほどの手軽感や親近感も、低くかったと思いますね(汗)

1981年。PC-8001の上位機種、NEC PC-8801発売。
1983年。NEC PC-8801mkII発売。FDD・第一水準漢字ROM・単音源搭載。
遂に日本のパーソナルコンピュータが、漢字を手に入れます。



そして、1985年(昭和60年)1月。ゲーム大国日本の礎となる名機が、産声をあげました。
グラフィック機能強化+FM音源を搭載。NEC PC-8801mkIISR発売。
PC-8801mkIISRは、CPU・4MHz。512色の内の8色表示。
FDDの記憶容量も、たったの320KB。0.3MB。
音楽表現を豊かにするFM音源を搭載しましたが、あくまで電子音です。
歌手のボイスを聞くなんて、またのまた夢…(汗)

今の人たちにすれば、ないないづくしで苦笑されてしまうでしょうが、
当時の若者にとって、PC-8801mkIISRは、あるあるづくしなんですよ。
漢字、音源、記録、グラフィック…あって当たり前の機能が、
PC-8801mkIISRの登場で、
やっと個人の手に全て揃ったんです。


アラン・ケイは言いました。PCは「個人のための理想のコンピュータ」であると。
まさにPC-8801mkIISRは、夢と理想のパーソナルコンピュータでしたね。

PC-8801mkIIからFR/MRまでを、武田鉄矢がCMキャラを努め、
FH/MHからFE/MA2/VA2/VA3までを、斉藤由貴がCMキャラを努めます。
ビジネス指向よりも、ホビー指向の強さを前面に出して、若者に大ヒットです。

あのBGMを聞くと、ワクワク・ドキドキと高揚します。
あのラストのグラフィックを見ると、映画同様に心は余韻に包まれます。
あの台詞を読めば、じ~んと涙も溢れてきます。
小説、映画、音楽…が、パーソナルな人生に教訓や感動を与えてきたように
小説、映画、音楽をメディアミックスしたゲームもまた、
人の人生に大きな影響を与える存在となっていきます。


しかし、当時ファミコンは14,800円。PC-8801mkIISRは、258,000円です。
散らかる「現実」の部屋で、「理想」のPCだけが、妙に光り輝いていました(汗)
現実と理想の対比もまた、人生って事でしょうか?

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| 1985年(昭和60年) | 18:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和39年]波をちゃぷちゃぷ♪NHK「ひょっこりひょうたん島」

ひょっこりひょうたん島

地球儀を初めて見た時、自分の住んでる日本が、本当に小さく感じました。
余りにも小さいから、ひょんな拍子で、大きな太平洋にふわふわと…、
流されてしまいそうな、危うさも感じたりしました。
それは、こんな物語をテレビで見たせいかもしれません。

遠足に出かけたひょうたん島が、突然ドカーン!!と火山が大噴火。
海原へ流れ出てしまった島には、サンデー先生と子供たちが取り残されます。
●男勝りで教育熱心。ダンディに恋心を持つ美人教師、サンデー先生。
●子供たちのリーダー、成績優秀・垂れ目眼鏡の超天才、博士。
●スポーツ万能で力持ち、活発な男の子、ダンプ。
●料理大好き、食べるのはもっと大好き、ピーナッツ顔のテケ。
●サンデー先生のような教師になることを夢見る女の子、チャッピ。
●おとなしいお嬢様タイプの美少女プリンちゃん。

そこへ、個性豊かなキャラクターが流れ着き、奇想天外な物語が展開します。
●お喋りで演説好き、ひょうたん島の初代大統領となるドン・ガバチョ。
●膨大な盗品を持っているのに、がめつくてケチンボな海賊、トラヒゲ。
●ニヒルでクールなシカゴのギャング、シンガン・ダンディ。
●腕は確かなのに、不謹慎な発言が多い医師、ムマモメム。
●ネズミや怖いものが苦手、気の弱い人畜無害のライオン。

波をちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷ、かきわけて~♪




ミュージック仕立てで、放送されていたのが、
NHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」でしたね。
1964年(昭和39年)4月放送開始。放送時間は、平日の15分。
夕方6時からは、大抵大人達は、ニュースを観ていました。

子供にとっては苦手なニュースの前の、楽しいひとときです。
私が幼児から小学校低学年まで続き、5年に及ぶ放送は、1224回を数えます。
小さかった事もあるのでしょうが、実は物語の詳細を余り覚えていません(汗)
不思議だなと思い、ネットで調べてみると、なんと…
現存する録画テープは、8話分しか無いと言います。
60年代、当時のビデオテープ(2インチVTR)は、非常に高価でした。
放送された映像は、放送後には消去され、他の番組で使い回されたと言います。
全1224回の内のたったの8回分しか現存していないのでは、再放送はありません。
幼い子供に1224回の記憶が無いのも頷けます(汗)

しかし、熱烈なファンだった、一人の中学生のお陰で、
「ひょっこりひょうたん島」の内容は、放送資料として、今も読むことができます。
放送当時、中学生だった伊藤悟さんは、「ひょっこりひょうたん島」のファンになり、
5年の長きに渡って、番組を観ながら、詳細をノートに記録し続けました。
その資料は後に、1991年、番組がリメイクされる際に活用されたと言います。

文芸評論家は言います。
「スペインにドン・キホーテがあり、中国に孫悟空がいるように、
日本にドン・ガバチョやトラヒゲがいる。海を漂うひょうたん島は
日本の象徴だと思う。」と。


個性豊かな人々が、
島国で共生する様は、まさに日本です。


…苦しいこともあるだろさ。かなしいこともあるだろさ。
…だけど僕らはくじけない。泣くのはいやだ、笑っちゃお~♪
…すすめー♪ひょっこりひょうたん島

進め~♪日本~♪と、叫びたいですね。

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| 1964年(昭和39年) | 13:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和54年]宮崎美子「今の君は ピカピカに光って」ミノルタX-7。

ミノルタX-7

小学校の帰り道、小さな商店街の露地裏に、レンズ工場がありました。
傷や規格外で除外された不良レンズが、工場の片隅に山と積まれています。
友達のお父さんがそこに勤めていたこともあり、
時々、工場の敷地内にこっそり入っては、キラキラ光るレンズを物色したモノです(汗)
厚みの違う凸レンズ、瓶の底より凹んだレンズ…
レンズ越しに見た世界は、まさに別世界です。
子供だった私の目も、きっとキラキラしていたに違いありません。
「好きなのがあったら、持って行って良いぞ。ただし…
太陽だけは、見ちゃいかん。その約束が守れるなら、持って行け!!」
子供にとって、ビー玉も含めガラスと言うのは、
どこか不思議な世界への入り口だった気がしますね。


レンズはカメラの命。その光学技術の高さ故、日本は世界シェアを握っています。
しかし、元々カメラやレンズのような光学技術は、ヨーロッパ諸国の方が最先端です。
ライカ・ハッセル…レンズで言えばツアイス等、日本より優れたメーカーは存在します。
なのに何故、日本のシェアが上なのか?
特にドイツ製のカメラを愛したのは、プロのカメラマンたちです。
高性能を追求した結果として、価格が跳ね上がっても、プロには需要はあります。
日本製の優れているところは、品質を高次元で保ちつつ、精密な量産技術で、
プロ以外の多くの人々に、カメラを提供し続けた事でしょう。




1979年(昭和54年)3月。ミノルタX-7発売。
プロ専用機のような一眼レフカメラが、手に届く価格で発売されました。
1980年から放送された宮崎美子さんのCM「今の君は ピカピカに光って」は、
今の時代にパロディーにされる程のヒットCMとなりましたね。
キャッチコピーは「音楽を楽しむように撮ろう。」です。

同時期、オリンパスからは、高級機OMシリーズの廉価版OM-10発売。
タレントは、当時人気だった大場久美子を起用。キャッチコピーは…
「ク、クミコちゃん。キミが好きだと言うかわりに、僕がシャッターを押した。」
ペンタックスMV1発売。「シャッターの音が、僕たちの言葉だ。」
ニコンEM発売。キャノンAV-1発売。まさに1979年、1980年は、
小難しい一眼レフのイメージを払拭させるようなCMが、乱発されました。
そのお陰で、にわかカメラマンも増えたんじゃないでしょうか?(汗)

しかし…撮りたいものを見つけられない人に、
一眼レフカメラは、ちょっと時代が早すぎたかもしれません。

あれから、30数年。日本のカメラ・光学技術は、
レンズのように磨きをかけ続け、
更に電子技術の武器を手に入れて進化を続けます。

今や携帯・スマートフォンには、当たり前のようにカメラが付いています。
いつでもどこでも、手軽にカシャ!!そして、BLOGにアップ。

撮る事が、身近になった今だからこそ…
「音楽を楽しむように撮ろう。」のキャッチコピーが、現実的となり、
心に響くようになったと思いませんか?

子供の頃、覗いたレンズの世界は、不思議な世界でした。
しかし今、そのレンズは、私の目の前にあります。
眼鏡となって、現実の世界をくっきり見せてくれています(笑)

と、言いたいところなんですが…
人間本来が持ってる裸眼レンズが、ここのところ、どうも調子が悪いんです。
調整が利きづらくなってます…うぅぅ~老眼ですよね(汗)



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| 1979年(昭和54年) | 15:20 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和60年]将棋界に「チャイルドブランド」羽生善治四段誕生。

羽生善治

子供の頃、長屋風のアパートに住んでいたことがあります。
長屋と言うのは、妙な物で、近所づきあいが濃厚になるんです(笑)
人間関係を密にしていたのは、狭い路地に置かれた縁台のような気がします。
盆の上に乗せた麦茶も、赤くて瑞々しいスイカも、その縁台にはマッチしていました。
まだ、パジャマなんてハイカラなものを、着てる人は少なかったですね。
近所の爺ちゃんは、いつも白いステテコに腹巻きで、うろうろしていました(笑)
縁台に座ると、よしみのあんちゃんを捉まえては、縁台将棋で盛り上がっています。
そんな、近所でも将棋が強かったその爺ちゃんが、ある日、中学生のお兄ちゃんに負けて、
悔しがっていた姿を時々思い出す事があります。

数倍も年齢を重ねた爺ちゃんが、中学生に負ける。子供心に不思議に思ったものです。
しかし、中学生のお兄ちゃんが、爺ちゃんに勝った必勝法とは…ズバリ定跡でした。

将棋の初手では、動かせる駒は30通りしかありません。
勝負に勝ちたいなら、▲7六歩、▲2六歩の2通り。

プロの世界でも、この2手には▲7六歩が80%。▲2六歩が20%とのデータがあります。
最悪の初手は、谷川九段が▲8六歩、▲7八銀と述べています。
素人が考える最初の一手は、▲7六歩がデータ的に最善の一手となりますね。

定跡とは、様々な歴史や棋譜から研究された
勝つためには、必ず覚えるべき手筋と言えます。
この定跡を、仕事に当てはめれば、ノウハウやセオリーと言えるでしょう。
仕事を早く覚えたければ、先輩や上司の言う事を聞いた方が、
成長は早くなりますよね。
社会に当てはめれば、常識でしょうか?常識ある人は、生き易くもあります。


1985年(昭和60年)12月。プロ棋士になった中学生が誕生しました。羽生善治さんです。
加藤一二三氏、谷川浩司氏に続く、史上3人目の中学生棋士の快挙です。

1983年(昭和58年)、ファミコン発売。
当時、子供たちの間では、ゲームに強い子供は、一目置かれる風潮がありました。
古臭い印象の将棋を、インテリジェンスなゲームと受け取っていたかもしれません。
彼に憧れ、棋士を目指した子供も多く、羽生さん世代を「チャイルドブランド」と呼んで、
大人達は、とこか高をくくっていたように思いますね。
しかし、そんな大人達を撫で切りにし、羽生さんは勝ち続けます。

「定跡というのは、つまり先人の知恵やノウハウの集大成ですよね」
と、羽生さんが問われた時、
「最先端の手法として、現在流行っている手法は、
そうした定跡から見ると邪道という場合も少なくないんです。」と。

従来の形・慣習にとらわれない将棋観こそが、羽生さんの強みだったのでしょう。
まさに、将棋界の超新人類となりました。

1989年。初のタイトル「竜王」獲得。その後、竜王を再び奪取されるものの…
棋王戦・名人戦・棋聖戦・王位戦・王座戦・竜王戦と6冠を勝ち取り、
そして…、1996年2月。迎えた最後の一冠、王将戦…全冠制覇は、まさに目前!!
どんな新手を使い、勝ちを取るのか?固唾を呑んでいましたよ(笑)

そして、超新人類の羽生さんが、最後に繰り出した手は…
将棋に興味を持ち始め小学生の頃、好んで何度も何度も指した「横歩取り」でした。
江戸時代の棋譜にも残されている代表的な定跡のひとつだったのです。

羽生さんは言います。「初心者は、まず真似てみることが大切です」と。
しかし、続けてこう言います。
…そこでとどまってはダメなんですよね。
…「真似」から「理解する」レベルにならなくては
…いけないんです。

…そこまで辿り着けば、先人の教えが「なんだ、そういう意味だったのか」と。

若い頃、意味が分からず、「何でこんな事を」と思ったセオリーや常識は、
知らずの内に自分を成長させていました。
そして、その意味を理解した時…新たな定跡が生まれます。
人生と言う盤面に、最善の一手を打つ事ができるのかもしれません。


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| 1985年(昭和60年) | 21:09 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和51年]乾くのは何?内山田洋とクール・ファイブ「東京砂漠」

東京砂漠

岐阜県には、海がありませんが、良質の水量をたたえる3本の川が流れています。
長良川・木曽川・揖斐川です。猛暑が続き、他県の水不足のニュースを聞きつつも、
その水量の恵みのお陰で、渇水と言う経験はありません。
水が、あることが当たり前のように、子供の頃、暮らしてましたね。

70年代後半に差し掛かる日本は、戦後の高度成長も一段落し、安定期に入ります。
1968年(昭和43年)には、西ドイツを抜いて、
GNPで世界第2位の国になっていました。

しかし、人口の多い日本にとっては、世界第2位の数字も、実感は薄かったと思いますが、
敗戦後の混迷と低迷を思えば、幸せですよね(笑)

1973年(昭和48年)から、田中角栄が打ち上げた日本列島改造ブーム。
生活に便利な商品や娯楽を、どんどん手にするようになりました。
しかし…物質を謳歌する日本人は、
どこか背伸びをしすぎていたかもしれません。
何か?大切なモノを忘れかけ始めていました。

翌年、1974年、オイルショックの影響で物価指数は23%上昇。異常な高騰を見せます。
しかし、物欲や娯楽を作り出し、提供し続ける事は、経済の本質です。

物質の大切さは分かっていますが、物質には、常に影は付きもの…
豊かさの象徴と言われた自動車の影は…毎年1万が死亡する「交通戦争」へ。
学力が向上する影で、若者のやり切れなさは、バイクによる暴走族の台頭へ。
夢の海外旅行の影で、日本人男性によるアジア諸国への買春旅行へ。
そして、物質経済の象徴、東京の影は…



1976年(昭和51年)5月。内山田洋とクール・ファイブ「東京砂漠」発売。
「欽ちゃんのドンとやってみよう!」で、とぼけた笑いを振りまいていた前川清さんを、
小さな子供たちは、きっとコメディアンと思っていたでしょうね(汗)
前川清さんは演歌歌手です。ニューミュージックの台頭で
廃れつつある演歌歌謡の中、この曲のヒットは、奇跡だったかもしれません。

「東京砂漠」とは、元々1964年(昭和39年)に発生した
東京大渇水の際に生まれた言葉です。
明治14年以来という猛暑を記録し、空前の水不足となりました。
約3か月続いたその状態を「東京砂漠」と表現したわけです。

…空が哭(な)いてる、煤(すす)け汚されて
…ひとはやさしさを、どこに棄(す)ててきたの

…だけどわたしは、好きよこの都会(まち)が
…肩を寄せあえる、あなた、あなたがいる
…あなたの傍で、ああ、暮らせるならば
…つらくはないわ、この東京砂漠

「東京砂漠」は…物質に取り憑かれ、人間関係の希薄さを感じつつ…
困難に満ちた東京で、出会った男女の愛を表現しました。
忘れかけていた何かを思い起こさせて、ヒットしたのかもしれません。

あって当たり前と、軽く思った水は、
無ければ、命に関わる大切な水でした。


3年後、1979年(昭和54年)5月の総理府「国民生活に関する世論調査」で、
「まだまだ、物質的な面で生活を豊かにすることに重きをおきたい」…40.3%
「物質的にある程度豊かになったので、これからは心の豊かさや
ゆとりのある生活をすることに重きをおきたい」…40.9%
物の豊かさよりも、心の豊かさが大事と、初めて統計上を上回りました。

水のように、潤いのある心を大切にしたいですね。

「日本の心」と言われた演歌ですが、歳をとると、何故かしっくりきます~(照)

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| 1976年(昭和51年) | 15:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和57年]夏のカネボウ化粧品、山下久美子の「赤道小町ドキッ!」

赤道小町

食べ合わせが悪いと言われているモノがあります(笑)
代表的なモノに鰻と梅干し。実は、根拠が無いことだと知りました(汗)
胃酸を分泌させ、食欲の増す高価な鰻を、贅沢への戒めとした言葉だとか。

逆に、組み合わせの良いモノがあります。
骨を丈夫にしたいなら、カルシウムですが、ビタミンDと一緒に接収することで、
カルシウムの吸収力を上げることができます。
若返りのビタミンと言われるEは、ビタミンCと合わせることで、
その持続時間が長くなると言います。

人も同じだと思うことがたくさんありますね。
仕事・家庭・趣味…一人で楽しむ時間も大事ですが、人と交わることで、
より充実した時間を得る事ができます。
ライバルの出現は、新しい発見や新たな方向性を教えてくれるものです。

人は、「組み合わせ」を善し悪しで判断するだけではなく、
時に…奇想天外な組み合わせを試みて、意外性を楽しむことがあります。
80年代前半の日本はまさに、感性を刺激する意外性が、
人を楽しませた時代だったのかもしれません。
「意外性」は、マーケティングの浸透と共に、CMを通して表現されました(笑)
とりわけ、70年代後半から激化した、化粧品のキャンペーン合戦は、
絢爛豪華さで、日本のCM史上に残る戦いを見せてくれましたね。




1982年(昭和57年)夏キャンペーン。
●カネボウ…赤道小町ドキッ!。by山下久美子
●資生堂…ナツダカラ、コウナッタ。by矢沢永吉
●コーセー化粧品…ドキドキ・サマーガール。byタケカワユキヒデ

コピーライティング的には、「赤道小町ドキッ!」は絶品ですね(笑)
「南国」よりも熱く感じる「赤道」の言葉に、
「女」より、しとやかで艶やかな意味を持つ日本的な「小町」の組み合わせは、
本当に「ドキッ」としました(笑)


その年、資生堂・春のキャンペーンでは…
意外なミュージシャンの組み合わせが話題になりました。
●カネボウ…浮気なパレットキャット。byハウンドドッグ
●資生堂…い・け・な・いルージュマジック。by忌野清志郎&坂本龍一
●コーセー化粧品…色つき女でいてくれよ。byザ・タイガース

忌野清志郎と坂本龍一のカップリングに、日本中が驚いたんじゃないでしょうか?
秋のキャンペーンには、漫才師として人気絶頂だったビートたけしが、
「OK!マリアンヌ」を歌い、コーセー化粧品からCMが流されました。
意外さを通り過ぎて、聴き惚れるその歌に、も~感服です(汗)

翌年、1983年(昭和58年)の夏キャンペーンは、まさに圧巻!!
ビッグタイトルが、がっぷり四つに組んで、CM戦争、ここに極まれり!!
●カネボウ…君に、胸キュン。byYMO
●資生堂…め組のひと。byラッツ&スター
●コーセー化粧品…夏女ソニア。byもんたよしのり&大橋純子

組み合わせとは、足し算ではなく、常に掛け算…。
掛け合わされた膨大な組み合わせの中から見つけるからこそ、ドキッ!!とします。
ほんの一握りの「ドキッ」を見つける事は、本当に至難の業です。

至難の「ドキッ」×至難の「ドキッ」で、更にドキドキ生きたいモノです(笑)

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| 1982年(昭和57年) | 13:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和54年]音楽を連れて歩こう!!SONYのウォークマン。

ウォークマン

60年代から70年代前半、娯楽の中心になりつつあったテレビも、
レコードに針を落とすステレオも、家の重要な一部でした。
家族が一同に集う場所に、ドカンと鎮座した家具調タイプの家電です。
スイッチを入れない時には、ご丁寧に、レースまでかかっていましたね(笑)

しかし、めざましい技術進歩と個人の多様化から、
70年代後半、電化製品の家具調タイプは、その需要を減らしていきます。
ポータブル化・コンパクト化がもたらしたモノとは…
「一家に一台から、一人に一台へ。」「家の中から、家の外へ」でした。


1979年(昭和54年)7月。SONYから初代ウォークマン・TPS-L2発売。
それまでの音楽機器には、録音機能は必需品でした。
しかし、ウォークマンはその常識を覆し、録音機能をバッサリ削ります。
まさに、音楽を自分のためだけに聴く人が、商品コンセプトでした。

そのウォークマンの人気を不動にしたのは、やはり「ウォークマン2」でしょう。
1981年(昭和56年)2月。ウォークマン・WM-2発売。
カセットテープレコーダーの延長線だった初号機のデザインを
「音楽を連れて歩く」というライフスタイルに併せて、
カジュアルなモノに変更します。選べるカラーも3色。ウォークマンは、大ヒット!!
誰もが欲しくて仕方がない商品だったのではないでしょうか?



その後も、オートリバース…FMチューナー…防水…等々の進化を続け、
1987年(昭和62年)、「新世代ウォークマン」として、WM-501発売。
重低音DBB回路、ヌードターボHiFi、アモルファスヘッドを搭載し、高音質化を図ります。
機能重視の進化から、音質重視の進化へ。

そのCMは、余りにも有名になりましたね。
新商品のウォークマンを手にした一匹のお猿さんが、まるで聴き惚れているかのように
うっとりとした表情で音楽を聴くさまが、当時の話題を掠いました。

そのお猿さんの名は、初代チョロ松…
「周防猿まわしの会」に所属し、大道芸に身を置く一匹のお猿さんでした。

しかし、あの人を魅了した、なんとも言えぬチョロ松の表情は、
何度リテイクしても出せなかったと言います。
CM撮影は、数日続き…芸の合間、チョロ松は、座り慣れた自分の椅子で待機します…。
そこで、リラックスし、ふっと、見せた表情こそ、
「進化した人間を連想させるたたずまい」と絶賛された、あの表情です。
多くのCM大賞を受賞し、そして、日本のみならず世界で注目を集めました。

機能押しの商品やサービスには、限りがあります。
大事なのは、使う人が、気持ち良いと思う心じゃないでしょうか?
気持ちが良いからこそ、
「愛される」という代名詞が付くのだと思います。


昭和の時代、ウォークマンは、若者に愛されました。
しかし、その後のウォークマンは、iPodの登場で敗北を帰します。
MD採用、厳格な音楽著作権管理、汎用MP3が使えない、CCCDでリッピング不能…。
使って気持ちいい心が、iPodに流れてしまいました。

方や初代チョロ松は、CM後人気者となり、その人気は衰える事はありませんでした。
1990年、猿まわしの現役から引退。
2007年1月14日、老衰により29歳8か月の生涯を閉じます。
愛され続けた初代チョロ松は、人間で言えば100歳の大往生でした。

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| 1979年(昭和54年) | 18:43 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和54年]松田優作主演のハードボイルド??「探偵物語」

松田優作

岐阜で、人を馬鹿呼ばわりする時に「たぁけ~」と言います(笑)
子供の頃、何度も大人に言われたし、じゃれて友達に何度も言った覚えがあります(汗)
「たぁけ~」とは、「たわけ」の事。古事記や万葉の時代からある
「戯け」が方言になった言葉です。
俗説では、「田分け」と書いて、複数の子供が田畑を分け続ける事で、孫・ひ孫の代には
田畑はへり、資産が減っていく愚かな様を、洒落て当てた言葉とも言われています。

昔、この大たわけが、戦国の覇者となり天下統一を目指しました。織田信長です。
若き日、信長は「うつけ」「たわけ」と呼ばれて、家臣に疎まれました。
しかし、乱暴や狼藉を働く無法者と思われつつも、農民や側近たちは、
「歌舞伎者」と呼び、信長に共感と愛着を持っていたように思います。

歌舞伎者とは、異風を好み、派手な身なりで、
「うつけ」「たわけ」と見られがちですが、
どこか、内に秘めた器の大きさが計り知れない
そんな人間の事に思えてなりません。




1979年(昭和54年)9月。松田優作主演のドラマ「探偵物語」放送開始。
松田優作演じる私立探偵・工藤俊作が、様々な事件を捜査していくドラマでした。
松田優作の風貌や、主演映画「蘇える金狼」「野獣死すべし」を見てしまうと、
「探偵物語」をバリリバリのハードボイルド・アクションと想像してしまいますが、
いやいや…ハードボイルドな面もありつつ、コミカルなアクションと
台本なのか?アドリブなのか?分からない、
出演者との掛け合いが、独特の世界観を作り出していました。


そして、何より見た目ですよ(笑)当時、こんな格好の奴はいないよ~と思いましたね。
誰が見ても、街に溶け込まないマフィアのようなファッション(笑)
そして、タバコは舶来が珍しい時代に、ラクダのキャメル。
着けるライターは、1975年に発売され、浸透していた100円ライターではなく、
カルティエのライターで、それも常に火力全開(笑)
みんな真似して、一度は前髪を
焦がしたんじゃないでしょうか?


移動と言えば、ハーレーダビッドソンに乗ればいいものを、スクーターですよ(笑)
1976年、ホンダ・ロードパル。1977年、ヤマハ・パッソルの発売で、
主婦や女性層に50ccスクーターブームが起きていました。
しかし、探偵・工藤俊作が乗るスクーターは、150cc。
原付ではなく、中型自動二輪の免許が必要なんです。
そして、スクーターのメイカーは「ベスパ・P150X」。
名画「ローマの休日」で、グレゴリー・ペックとオードリー・ヘプバーンが、
ローマ市内を二人乗りした、あのベスパ(125cc・V30T)です。
150ccと言う中途半端さを感じつつも、ローマの休日のベスパですよ~(笑)

ブラウン管の中に居る工藤俊作は、「うつけ」「たわけ」とは違います。
「歌舞伎者」のイキの良さを感じて、見ていたのを覚えています。


時々、探偵物語の工藤俊作を真似するタレントがいますが、
ただ笑われているだけの、馬鹿馬鹿しさしか感じません。

松田優作という稀代まれな俳優がいて、成り立つ「探偵物語」でしたね。
松田優作演じる工藤俊作に笑わせてもらいもしました。
そして、あんな風に、人に笑われるのも格好いいよねぇ~。と、
思わせてくれる男でもありました。

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| 1979年(昭和54年) | 15:06 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和45年]パーソナリティ・城達也の「JET STREAM」

日本航空

中学校の修学旅行で、初めてその白い巨体を見ました。
尾翼にペイントされた赤い鶴のマークが、「世界」へ繋がる扉に見えたのを覚えています。
ボーイング747。「ジャンボジェット」の愛称で呼ばれたその機体は、
1970年に就航したばかりの最新鋭旅客機です。
ミニチュア・プラモデル・おもちゃ…飛行機と言えば「ジャンボ」と言うぐらい
当時の子供達にとっては、頭がぷっくり膨らんだあの飛行機に
愛着と憧れを持っていたんじゃないでしょうか?

GHQによる航空禁止令が全面解除されてから14年。
日本人は、空を自由に飛べるようになりました。と同時に、力を付けた経済力で、
空を飛んだその先に、海外を感じるようになりましたね。
とりわけ、大量に運べるジャンボの、ハワイ・ホノルル就航開始が、
日本人をハワイ好きにしたのかもしれません(笑)


1970年(昭和45年)4月。3年余りの試験放送を経て、開局したばかりの
エフエム東京(TOKYO FM)で、ラジオ番組「JET STREAM」放送開始。
初代パーソナリティは、城達也さん。
スポンサーはもちろん赤い鶴のマークの日本航空です。

深夜、今のようにテレビは、夜中中流れている時代ではありません。
テレビも一家に一台の時代です。深夜0時を回って、起きていようものなら、
親に「いつまで起きてるの~」と怒られたものです(汗)
こっそり灯したライトスタンドだけが、唯一部屋の明かりです。
古ぼけたラジオのスイッチを、ガチャと押すと…
日付が変わると同時に、ジェット機の音が流れてきます。
それが、城達也さんの「JET STREAM」でした。




…遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、
…はるか雲海の上を、音もなく流れ去る気流は、
…弛みない宇宙の営みを告げています。

…満点の星をいただく、はてしない光の海を、
…ゆたかに流れゆく風に、心を開けば、
…きらめく星座の物語も聞こえてくる、
…夜の静寂(しじま)の、なんと饒舌なことでしょうか。

…光と影の境に消えていった、
…はるかな地平線も瞼(まぶた)に浮かんでまいります。

…日本航空があなたにお送りする音楽の定期便、
…ジェットストリーム~
…皆様の夜間飛行のお供を致しますパイロットは、私、城達也です。

海外旅行が、日本人の夢のひとつになり始めた時代に、
城達也さんの甘く囁く声と、放送作家・堀内茂男さんの名散文詩は、
海外への旅愁を感じさせてくれましたね。

夜の静寂(しじま)の、なんと饒舌なことでしょうか。

当時、学生だった私にとって、夜の静寂(しじま)とは、
漠然とした将来の夢や憧れが、静かに深く…定まっていく時間だったと思います。
静寂(しじま)とは、人が成長する上で、とても大切な時間のようですね。

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| 1970年(昭和45年) | 20:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和59年]スティーブ・ジョブズのMacintosh 128K発売。

スティーブジョブズ

家の物置には、昔懐かしいパソコンが数台あります。
スイッチさえ入らない電化製品やパソコンと言うのは、
持ち続けてもアンティークな価値はありませんよね。
粗大塵と化したパソコンですが、思い出が詰まっているだけに
なかなか捨てられないのが現状です(汗)

もし、アンティークと呼べる風格があるパソコンを選ぶとすれば、
MAC…いやマッキントッシュ(Macintosh)と呼ぶ方が正しいでしょう(笑)
1984年(昭和59年)1月。Macintosh 128K発売。CPUはMC68000 8MHz。
若き日のスティーブ・ジョブズが率いる、アップが手がけたこの一台は、
その後のPCの流れを決めました。


80年代半ば。テキストを相互に関連づける
ハイパーテキスト(hypertext)が生まれました。
静的な文章(テキスト・文字列)を動的インターフェースで結ぶこの考え方を
やがてマッキントッシュは、ハイパーカード(HyperCard)に昇華させます。。
1枚のカードの上にはテキストや画像が配置されています。
別のカードと別カードを繋ぐのは、リンクと言う名のボタンです。

プログラムを直接記述する事無く、簡単なアプリケーションを作ることができ、
今で言うマルチメディアオーサリングツールとして、大成功を収めました。
当時、このハイパーカードのマッキントッシュが欲しかったですねぇ~(笑)

2011年10月、スティーブ・ジョブズは、56歳の若さでこの世を去ります。
2005年6月、スタンフォード大学の卒業式で、
こんなジョブズのスピーチが残されています。

…未来に先回りして、点と点を繋ぐ事はできない。
…君たちができるのは、過去を振り返って繋げることだけなんだ。
…だからいつか、何らかのカタチで点と点が繋がることを信じなければならない。
…自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいいから、とにかく信じるのです。
…歩む道のどこかで、点と点が繋がると信じれば、
…自信を持って、思うままに生きることができます。
…たとえ人と違う道を歩んでも、信じることが全てを変えてくれるのです。

カードとカードがリンクするように…
人は、繋がりによって、新たな道を見つけ出すものです。


Macintosh 128K発売後、ハイパーテキストは、World Wide Webへ進化しました。
通称WWW。いわゆるインターネット上のハイパーテキストシステムですね。

テレビで、お宝探偵団の先生も言っていました。
学術的なモノや歴史的背景の持つモノには価値がある-と。
マッキントッシュは、アンティークと呼ぶにふさわしい世界に冠たる名機でしょう。
現在、入手困難。状態が良くて、6~7万ってトコでしょうか?
この値段は高い?安い?

それと、ウェブ上のリンクというのは、古くて、良質なモノほど、
自分のページランクが、上がる性質を持っています。
人もまた、繋がる人間関係によって、自分の価値は上がるものです。

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| 1984年(昭和59年) | 16:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和36年]ハナ肇とクレージーキャッツの「スーダラ節」

スーダラ節

夢や希望をを与えてくれる人も大事ですが…
現実の厳しさや苦しさを、面等向かって言い切る人も大事ですね。
人は、罪を犯しやすく、腐りやすい弱い面を持っています。
方や「駄目で元々、失敗したらごめんなさいよ」と、
楽天的に振る舞える強さや、大らかさを持っているのも人間です。


戦後、遮二無二働いた日本は、1956年(昭和31年)7月、
発表された経済白書で「もはや戦後ではない」との結びの言葉を受けて、
日本の復興が完了したこと告げました。
設備投資主導型の高度経済成長第一期は、1961年12月まで続き、
輸出・財政主導型の高度経済成長第二期へ突入します。

自分を律しながらも、毎日ちびちび呑んでいたお父さんたちのお酒も…
ちょっと一杯のつもりで呑む内に、いつの間にやら、はしご酒に変わり、
羽目を外し始めた時代が、60年代かもしれません(笑)

1961年(昭和36年)8月。ハナ肇とクレージーキャッツ、「スーダラ節」発売。



…チョイト一杯の つもりで飲んで
…いつの間にやら ハシゴ酒
…気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
…これじゃ身体に いいわきゃないよ
…分かっちゃいるけど やめられねえ

無責任極まりないこの歌ですが、当の植木等さん自身も
「こんな歌がヒットするようでは悲しいなぁ~」と言ったとか…(笑)
しかし、流行歌とは、時代を反映してヒットするものですね。
曲は大ヒットし、昭和の時代を代表する流行歌となりました。


様々な過ちや横道に反れながら、自らを悪人である自覚し、
無力さや弱さを悟りながら生きる考えを「悪人正機」と言います。
植木等さんのお父さんは、浄土真宗の僧侶だと言います。
親鸞の教えに通じるこの曲を「必ずヒットする」と励ましてくれたそうです。

…善人なおもって往生を遂ぐ。いわんや悪人をや(歎異抄:親鸞)

だめだと分かっていながらも、やってしまうのが人間。
分かっているなら、やらなきゃいいだろ~って話ですが…
いやはや、そんな簡単にはいきません(汗)
しかし、そんな無責任さを人間らしさと捉えるなら、やっと日本人が
敗戦の傷から癒え、人間らしさを取り戻した瞬間だったのかもしれません。

無責任と揶揄されながらも、大ヒットしたのは、
人の本質を突いた歌だったからでしょうか。

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| 1961年(昭和36年) | 21:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和42年]アメリカが最も恐れ、世界が最も愛した男チェ・ゲバラ。

チェゲバラ

人生であれ、仕事であれ、行き詰まった自分を変えようと思う時、
新しい何かに挑戦したり、勉強したりするものです。
しかし、そう分かっていても、なかなか行動に起こせないのも事実です(汗)
何かが足りない…その足りないものとは何でしょうか?

かつて、本気で世界を変えようとした男がいました。

1959年、カストロらと共にキューバ革命を成功させたエルネスト・チェ・ゲバラ。
「20世紀で最も完璧な人間」と語ったジャン・ポール・サルトル。
「世界で一番格好いい男」と叫んだジョン・レノン。
ゲバラは、アルゼンチンの裕福な家庭に生まれました。
医学生だった23歳のゲバラは、自転車に乗って南米大陸1万kmの旅をします。
そこで見た、貧しい人々の現実が、彼を革命家へと導いたのです。
当時、キューバはアメリカを後ろ盾とするバティスタ政権の独裁でした。
ゲバラは、独裁に苦しむ人々を解放するため、
カストロの右腕として、ゲリラ戦を戦い、そして、革命を成功させます。

ゲバラの信念は、決してぶれる事はありませんでした。
革命後も、権力者としてキューバに居座る事無く…
1966年。再び革命の戦い、ボリビアの地へ。
翌年1967年(昭和42年)10月8日。政府軍に捕らえられイゲラ村の小学校に収容。
翌日、政府軍兵士により、その命を絶たれます。
遠くを見詰めるゲバラの目は、閉じることはなく…
その顔を見た人々は、キリストを想像したと言います。

軍は、その亡骸の奪還と、聖地になることを恐れ、埋葬の地を秘密にしました。
しかしそれから30年。ゲバラの埋葬に関わった一人の老人が口を開きます。
「もう歳じゃ。このままチェの埋葬場所を喋らず死ねば、永遠に謎のままになっちまう」
1997年6月28日。ゲバラと6人の仲間たちの遺骨は発掘され、
現在は、遺族の住むキューバで、英雄として葬られています。



アメリカが最も恐れ、世界が最も愛した男。

ゲバラの死後、一人の男の「革命」は、若き学生達の心に火を付けていきました。
死の翌年1968年。民衆の反体制運動、戦後のフランスで最大の危機、パリ五月革命へ。
軍事介入まで発展したチェコスロヴァキアの変革運動「プラハの春」。
アメリカでは、ベトナム反戦運動の拡大へ。
1968年8月。You say you want a revolution(君らが望むのは革命かい)と歌った
「レボリューション」をビートルズが発表。
革命を象徴するゲバラは、その時代のヒーローになっていきます。
革命の心は、日本でも芽吹き、東京大学学生占拠に象徴される全共闘の活動へ。

当時、私は、モノの善悪などわからない小さな子供でした。
学生がヘルメットを被り、棒を振り回し、構内にバリケードを張り巡らし、
大声を張り上げる学生の姿に、得体の知れない力だけは感じていました(汗)
しかし、小さな子供に革命の心など分かろうはずがありません。

チェ・ゲバラは、教えています。自分の子供達に宛てた最後の手紙の中で
それをちゃんと、教えてくれています。

…この手紙を読まねばならない時、お父さんは側にいられないでしょう。
…世界のどこかで、誰かが不正な目にあっている時、
…痛みを感じることが出来るようになりなさい。
…これが革命家において、最も美しい資質です。

…子ども達よ、いつもお前たちに会いたいと思っている。
…だが今は、大きなキスを送り、抱きしめよう。~お父さんより

常に人の痛みの中に身を投じたからこそ、
チェ・ゲバラは、「世界が最も愛した革命家」と呼ばれたのでしょう。
そして、その力の源を…ゲバラ自身が身をもって教えてくれました。

貫き通す信念こそ、「本気」の正体。
全共闘のニュースを見た時に感じた、得たいのしれない力とは、本気…。

本気でぶつからなければ、現状は、何も変わらない!!

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| 1967年(昭和42年) | 17:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和52年]謎の未確認動物・UMA「ネス湖のネッシー」の真実。

ネッシー

織田信長の居城・岐阜城が見下ろす川の流れは、長良川。
鵜飼いで有名な長良川を下流に下るとそこにUMAは存在します。
UMAとは、Unidentified Mysterious Animalの略で、一般には「謎の未確認動物」の事。
1986年(昭和61年)6月10日。川へ泳ぎに行った教員2人が、その長良川で
体長2mにも及ぶ、巨大なエイのような動物を目撃したと言います(汗)
地元、岐阜県羽島市の地名から「ハッシー」と呼ばれ、
地元の新聞で、ちょっとした話題になりましたね。
長く住んでいますが、謎が多いんですねぇ~(笑)

未確認動物の存在は、中世の海図に良く登場します。
船に纏わり付くクラーケンは大蛸。体長100mに及ぶシー・サーペントは、海蛇。
その真実は、分かりませんが、海には、航海を妨げる魔物が沢山棲んでいたようです。

そんな未確認動物が、1960年代・70年代に日本でブームとなります。
伝説や伝承の中にしか居ないと思われていた怪物たちが、
テレビや新聞から、目撃情報や物的情報として報道され始めたのです。

●ヒマラヤの雪男イエティ(Yeti)
●アメリカ・カナダのロッキー山脈棲む猿人、ビッグフット(bigfoot)
●南米の吸血UMA・チュパカブラ(Chupacabra)
は、誰でも、その名を耳にしたことでしょう。
日本では、昔から知られていた河童やツチノコが有名です。

UMAの代名詞と言えば、もちろんあの「ネス湖のネッシー」です。
1934年4月、早朝…とある外科医が、ネス湖で1枚の写真を撮ります。
その写真には、首長竜を思わせる長い首が、はっきりと写っていました。
ネッシーの代表的写真として知られたこの1枚の写真は、
これから先、何十年にも及ぶネッシー論争を巻き起こす事になります。


「ネッシー発見!!」と、題されたテレビ番組が放送されていましたねぇ~(汗)
結局、何が動いてそうなったのか、不自然な波を最後に見せられて
2時間、視聴者をぴっぱるテレビ局もどうかと思いますけど…ね(笑)

1977年(昭和52年)4月25日、午前10時40分。
「大洋漁業のトロール船・瑞洋丸が、謎の生物の死骸を引き揚げた!!」
と、大ニュースが飛び込んできました。
その腐乱した死骸の姿は、まさにネッシーそのものです。

ニューネッシーと呼ばれたその死骸は、その場で、海に廃棄されますが、
身体の一部が船員の機転で残され、科学者の手に委ねられる事になります。
調査の結果は、「ウバザメ」に近い生物であると…。
1993年11月。UMAの火付け役となった外科医の写真が、
捏造であったことを、その死の直前に告白して、世界に衝撃が走りました。

あああ~あの、踊らされたUMAブーム何だったんでしょうか?(汗)
真実と言うのは、寂しくて、残酷なものです。

科学者にとっては、真実を突き止めることが浪漫かもしれませんが…
庶民にとっては、謎は謎のままの方が浪漫のような気がします。


今、テレビのバラエティーを見ると…
「何?この謎の宇宙人?」と思えるようなタレントが、人気を博しています。

ふむふむ、UMAブームは、しっかり続いています(笑)

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| 1977年(昭和52年) | 17:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和53年]爽快!!アラベスクの「ハロー・ミスター・モンキー」

アラベスク

高校の卒業を間近に向える頃、誰もが自動車学校に通います。
昭和55年4月。私は高校を卒業し、普通自動車の免許を取得しました。
父親から、半ば強引に譲ってもらったのは、トヨタ・カリーナの4ドアセダン。
スポーツタイプのクーペではないけれど、
自分が免許を取るまでは、マイカーとして後部座席に乗っていた車です。
今日から、運転席に乗るんだと思うと、その四角張ったカタチもどこかしっくり来ます。

165の標準タイアを195に履き替え…ホイールはアドバン。
フロントグリルを黒のスプレーで塗り潰すと、
大人しく感じていたセダンも、どこか内に秘めた獰猛さが伺えて、
惚れ惚れしてきます(笑)
当時の若者は、誰もが自分の車を自画自賛していたように思いますね。
恋人とまではいいませんが、車を単なる移動の道具ではなく、
自分の居場所のような愛着を持っていました


当然、居場所となれば、自分のライフスタイルが車内に反映されます。
バイクを同時に持っていた事もあって、後部座席には、
レプリカカラーのヘルメットが置かれていました。
外から車内を覗けば、ちょっと走り屋な感じがするでしょ(笑)

気が付くと…部屋に居る時間より、車に乗ってる時間の方が長くなっていました。
ライフスタイルの中でも、大きなウェイトを占める音楽も
必然的に車の中で聴く事が多くなります。




1978年(昭和53年)4月。免許を取る2年前。
冷戦時代の西ドイツからアラベスク (Arabesque)が、
「ハロー・ミスター・モンキー」をひっさげて日本に上陸!!
世界的なディスコブームも理由の一つでしょうが、
アイドル歌謡が全盛の時代から、国内の音楽は徐々に変わり始めていました。
ゴダイゴが歌う「モンキー・マジック」や「ガンダーラ」がヒットし、
原田真二や八神純子、久保田早紀等々が、ニューミュージックと呼ばれて台頭します。
どこかオシャレで都会的な曲が、若者の心を掴み始めていました。

そして、テンポの良いダンスミュージックは、小音で聴いても意味がありません。
部屋の中でガンガン聴けば、親や近所の目の敵にされます。
ガンガン聴くなら、そう、車の中でしょう~(笑)

車内の狭さに不釣り合いな大音量のカースピーカーから…
大ヒットばく進中のアラベスクの曲が流れれば、もう気分は爽快!!

免許を取った1980年に発売された「恋のペントハウス」を何度も聴きました。
CDやダウンロードの今の時代では、死語になりましたが、
カセットテープの時代だからこそ例えられる…

擦りきれるまで、聴きましたよ。

そして、車だけに、もう~もう~乗り乗りで!!(笑)

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| 1978年(昭和53年) | 20:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和38年]日本最初の本格アニメ、手塚治虫の「鉄腕アトム」

鉄腕アトム

学習センター、文化センター、市民センター…
市町村、近隣を見渡せば必ずありますね。
所謂、社会教育の拠点として、戦後から設置された公民館が、
ちょっとオシャレで、今っぽくなった呼び名です(汗)
私の子供の頃、公民館は子供達の楽しみの場となっていました。

定期的に「子供会」と称して、近所の子供達が集まり、
父兄やお兄さんお姉さんとレクリエーションをしたり、
お菓子を食べたり、話をしたのを覚えています。
そこで、時折読み聞かせてくれたのが、紙芝居です。
すでにテレビっ子と呼ばれた子供達も、テレビとも、漫画とも、絵本とも違う
独特のライブ感が楽しくて、心踊らせながら見たものです。

その昔、紙芝居屋と呼ばれた商売がありました。
娯楽の少なかった敗戦後の日本で、自転車の後ろに紙芝居を括り付け、
「紙芝居のおじさん」は、子供の居るところにやってきます。
講談師さながらの語りは臨場感に溢れ、捲る一枚一枚に息を飲み…
そこで売られた駄菓子を食べながら、きっと子供達は、夢心地だったに違いありません。
そんな紙芝居は、60代になると衰退していきます。アニメの登場です。



1963年(昭和38年)1月。日本で最初の本格アニメ「鉄腕アトム」放送開始。
原作は、1951年(昭和26年)4月から連載された
漫画の神様・手塚治虫さんの漫画「鉄腕アトム」ですね。

元々、アニメーションとは、映像技法の一つです。
秒間何コマの実写画像を、連ねた動画を映画と言いますが、
実写に代えて、線画や絵を用いて、動きにする事をアニメーションと言います。
映像文化を大切にしたアメリカのディズニーアニメを見れば一目瞭然。
本来のアニメーションは、動きに重きを置きます。

手塚治虫さんは、ディズニーアニメに憧れて、「鉄腕アトム」を作ります。
しかし、その日本初の本格アニメ「鉄腕アトム」は、
ディスニーアニメと比べれば、稚拙だったようです

一枚絵を上下左右に動かし、一枚絵を縮小拡大・回転させ、目が時々パチパチ開閉…
まるで、紙芝居や影絵芝居を講談師無しで、見せていたようなものです(汗)
しかし、当時の子供達にとっては、映像技術なんて、関係ありません。
初めて経験するワクワク感が、子供にとっては全てなんです。

「漫画を読んでると、馬鹿になる」と公然と言われた時代です。
子供の勉強の時間を減らしてしまう漫画は、親や社会にとって有害だったんです。

理解がない、予算がない、ノウハウがない…
そんな状況で生まれた紙芝居的映像表現は、必然だったように思います。
しかし、その逆境をストーリーに膨らみを持たせることで、
「鉄腕アトム」は、今見ても面白い質を生み出しました。

日本独特の文化・紙芝居屋が、独自の日本アニメへ。

空き地で拍子木が、カチカチなると、親の制止を振り切って飛び出したように
空を越えて~ラララ星の彼方~♪の音楽が聞こえると、
急いで、テレビの前に座りましたよ。

…ゆくぞ~アトム、ジェットの限り~
…心優し、ラララ科学の子~十万馬力だ!!鉄腕アト~ム♪

そう、大声で歌った鉄腕アトムの歌は、現代詩の重鎮・谷川俊太郎の詩です。
もう立派な勉強でしたよね(笑)

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| 1963年(昭和38年) | 15:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[平成05年]ウーピー・ゴールドバーグの「天使にラブ・ソングを」

天使にラブソング

仏語には、「六識」という言葉があります。
目で見ることで、色や形を識別する眼識。耳で聞くことで、声や音を識別する耳識。
鼻で嗅ぐことで、匂いを識別する鼻識。舌でモノの食感や味を識別する舌識。
手や身体で触れることで識別する身識。
人間が本来備わっている五つの識は、五感とも呼ばれ、
五感によって、考え思うことを意識と言うそうです。


学校で学ぶことは、子供が将来、生きていくための基盤を作ります。
目で見て感じて、絵や彫刻をつくる「美術」
曲を聴き、曲を奏で、歌を歌う「音楽」
身体を動かし、時に身体をぶつけ合う「体育」
みんなで、食を楽しむ「給食」の時間も、五感を高める立派な授業ですね。
五感は、本来人間が元々持ってる力ですから、個人差があり、得手不得手もあります。
それを補うのが、経験であり技術なのでしょうが、
私の場合は、小さな頃から漫画ばかり書いて、美術はいいのですが、音楽はダメ。
音痴のせいで、カラオケで歌うのも苦手の有様です(汗)あはは。

いつの頃からか…日本が、高度成長を始めた頃からでしょうか?
五感を高める事よりも、勉強の出来る子が、
人として優等生として見られる学歴社会が始まりましたね。


仏教では、五感を高め、思い描いた行動が善行を成す時「善知識」と言います。
知識とは、人として重ねるものであり、ただ蓄えるものではないようです。

そんな、ただ蓄える事に固執した教育からは、
蓄えるの事が苦手な子供達が、必然と「落ちこぼれ」と呼ばれるようになります。



1993年(平成5年)4月。アメリカ映画「天使にラブ・ソングを」日本公開。
ギャングの愛人で、しがないクラブ歌手・デロリス(ウーピー・ゴールドバーグ)は、
事件に巻き込まれたあげく、警察に保護されて、修道院に匿われる事になります。
尼僧として、堅苦しい生活に辟易しながらも、任された仕事は、聖歌隊の教育でした。

お世辞にも、上手いとは言えないその聖歌隊に、最初は戸惑いながらも、
厳格な修道院長の高圧的な態度にもめげず、聖歌隊は成長していきます。
その楽しい歌声は、落ちこぼれの少年少女達を無意識に教会へ導きます。
押しつけたところで、行くはずもない子供達を、教会に向かわせた力こそ「歌」でした。

落ちこぼれのクラブ歌手・デロリス…おちこぼれだった聖歌隊…そして子供達…。
「天使にラブ・ソングを…」の天使とは、
そんな落ちこぼれた人たちように思えてなりません。


落ちこぼれと決めつけるのは、きっと人です。
神の前では全てが天使なんだよ。と映画が問いかけてきます。

そして、映画のラスト…聖歌隊が歌う「I Will Follow Him 」を聴きながら
法王は、天使たちに大きな拍手で祝福し、映画は終わります。

学歴だけが人の価値を決める基準じゃない。
もともと、備わった五感のどれかに幸せを導き出せれば。
それが人として生きる糧となります。

あなたにとってのラブ・ソングは何ですか?

勉強嫌いで親を困らせた私は、今、デザインという世界で生活をしています。
私にとっての「ラブ・ソング」は、きっと、絵だったんですね。


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| 1990年代(平成元年以降) | 16:36 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和46年]ビージーズの名曲と共に「小さな恋のメロディ」

小さな恋のメロディ

中学校の行事として毎年、体育館で映画上映会が催されました。
その時に観た「小さな恋のメロディ」が、この歳になっても心の奥で
優しい光を放ち続けています。

1971年(昭和46年)6月。日本で公開されたイギリス映画。
英国では原題を「Melody」と言いますが、「Melody」では意を表していないと
制作会社の意向で「SWALK」に変更されてしまいます。
「SWALK」とは、「Sealed with A Loving Kiss」の略…。
ラブレターの最後に書き記す言葉で、
「愛を込めたキッスで封をしました」との意味だそうです。
意味を知れば、なるほど~と納得できますが、
もし、映画の邦題が「小さな恋のメロディ」ではなく、「SWALK」だったら、
きっと日本では、分かりづらいものになったかもしれません。


映画公開後、主人公のマーク・レスターとトレイシー・ハイドは、
映画雑誌等に紹介されて、大人気となりました(笑)



物語は、思春期を目前にした11歳の気弱な男の子ダニエル(マーク・レスター)と
メロディ(トレイシー・ハイド)の幼い恋の物語…。
そこに貧しい家の悪ガキ・トムが関わって、友情…冒険…反抗…そして、恋を綴ります。
今の映画のような、どんでん返しもストーリーの工夫はありません。
しかし、全編に流れるビージーズの曲と、シックなロンドンの街並みが、
小さな二人の恋物語を、童話の世界の事のように思わせてくれます。


恋を実らせた二人は、教室で「ぼくたち結婚します」と宣言します。
戸惑いながらも祝福を誓う友達たち…。
しかし、それを知った先生達は大騒ぎ。「どうして、いけないの?」の問いに、
ただただダメと言うばかり。この下りの伏線は、歴史の授業のシーンにありました。
ウェリントンのイベリア遠征について、先生が黒板にこう書きます。「STMTBMC」。
Saucy Turtles Make Terrible Bath Mats,Charlie
(いせいのいいカメはひどいバスマットになるよ、チャーリー)
日本で言うところの「1192(いい国)作ろう鎌倉幕府」の暗記法と同じなんですね。
それに対して、トムは暗記法よりも「なぜスペインと戦ったのですか」と、質問します。

ただ知識を押しつける学校じゃなく、
子供の「何故?」に真っ向から答えなければ、
子供は大人を信用しなくなってしまいます。


結婚を反対された二人は、子供達だけで結婚式を挙げようと計画…。
それを知った先生たちは、止めに車で向かいます。
爆弾マニアの友達の爆弾が、爆発して。先生の車は炎上~!!
そりゃもう大騒ぎの中…ダニエルとメロディは、トロッコに乗って旅立っていきます…。

線路の先で、二人にどんな運命が待っているのでしょう?
不確実な未来への不安と、二人で漕ぎ始めた今の幸せが交錯します。
中学生の頃、この映画を観ました。少年から、大人の狭間で
トロッコに乗る二人の姿が、自分に重なったような気がしましたね。

子供の頃、楽しいからずっと遊んでいました。
大人は、それを見て「いつまで遊んでいるの?」と叱ります。
子供の私は言います。「何故、遊んではいけないの?」と。

今、大人になった私は、その何故にどこまで答えられるだろうか?

ビージーズの曲が、やけに心に染みます…

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| 1971年(昭和46年) | 22:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[特集記事]特撮等身大ヒーローの王者、仮面ライダー。

仮面ライダータイトル

今のようなCG技術が無い時代。1960年代~80年代に
盛んに放映された特撮ものは、当時の子供達を熱狂させました。
日常では味わえない風景をミニチュアで、あり得ない動きをスーパーアクションで、
聞いた事もない音を特殊効果で、見たこともない造形の怪物にドキドキしました。

全ては、人が想像する世界と知りつつも…子供の心の中には、
悪と戦う正義のヒーロー「仮面ライダー」は、現実にいたんです


誰が馬鹿正直に、悪と戦うことが正義だと教えてくれましたか?
毎週毎週、子供の心にすり込むように正義を教えてくれたのは「仮面ライダー」です。
正義とは何?
悪の組織から「人間の自由を守ること」
これが、仮面ライダーの正義です。


「人間の自由を守ること」…今の時代に必要な正義じゃないですか。


※随時、昭和を駆け抜けた仮面ライダーシリーズを紹介したいと思います。
■ブログ内の「仮面ライダー」関連記事
仮面ライダー1号2号仮面ライダーV3
仮面ライダースナック


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| 特集コンテンツINDEX | 14:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和48年]力と技の風車が回る「仮面ライダーV3」

仮面ライダーV3

1971年から放送された仮面ライダー1号2号の活躍は、
その人気の高さに支えられて、2年の長きに渡り放送されました。

撮影中のバイク事故により、本郷猛役の藤岡弘さんに変わって登場した
一文字隼人役の佐々木剛さんは、2号ライダー役でありながら
二輪バイクの免許が無かったと言います(汗)
本郷猛ライダーがバイクに乗ったまま、ベルトの風車を回すのに対して、
佐々木剛ライダーは、バイクに乗らず、
「変身~!!」と叫んでジャンプする事で
ベルトの風車を回すスタイルを確立しました。

このスタイルこそ、仮面ライダーの代名詞「変身!!トーーー!!」です。
免許を持っていなかった事が幸いしたエピソードですね。

いつの頃からか、元科学者の設定と藤岡弘さんのスマートさもあってか、
「技の1号」と呼ばれ、自力で風車を回し、力強い変身ポーズから
「力の2号」の呼ばれるようになりました。

事故の怪我から復帰した本郷猛ライダーは、
肩から2本のストライプをあしらい、新ライダーとして復帰します。
1号2号が揃ったダブルライダーの登場は、
まさに夢の競演…狂喜乱舞でしたよ。


さてさて、この怪物番組を越えられるものはいるのでしょうか?



…赤い 赤い 赤い仮面のVスリー
…ダブルタイフーン 命のベルト
…力と技の風車が回る(主題歌歌詞より)

1973年(昭和48年)2月。直接的な続編として「仮面ライダーV3」放送開始。
ショッカーによる改造ではなく、1号2号ライダーの手によって
改造された仮面ライダーV3は、
力と技を併せ持つライダーとして誕生します。
変身ベルトも「ダブルタイフーン」のいいとこ取り。


登場する怪人と言えば…
●ハサミ+ジャガーで、ハサミジャガー。
●カメ+バズーカで、カメバズーカ。
●テレビ+バエで、テレビバエ。
●ハンマー+クラゲで、ハンマークラゲ。
●ナイフ+アルマジロで、ナイフアルマジロ。

昆虫や爬虫類、動物単体をモチーフにした怪人が登場する前回と比べ、
V3に登場する怪人のコンセプトは、動物+機械。
異なるものを組み合わせることで、その造形は輝きを放ちます。
実際、番組を観ていた子供達の目は輝いていましたね(笑)

更に、V3のカラーリングは、緑に赤。補色を利用した色の際だちは、
子供の目に強烈な印象を与えます。
そして忘れてはならないのが、「V3」と叫ぶ時です。
淡々と言葉通り「ブイスリー」と叫んではいけません。

「ブイ・スリャァァァァァァァァ」です(笑)

ココ間違えると、友達から笑われます。あはは。
語尾をシャウトすると事で生まれたインパクトは、
未だに脳裏に焼き付いています。
もう何から何までが、ダブルの怪物級。熱い熱い、濃い濃い…。
シリーズ最高視聴率の38%を記録し、その記録はいまだに破られていません。

仮面ライダーを1号2号と見続け、そして3年目のV3…。
3年…3年とは、子供が熱にうなされ、燃え尽きるのに十分な時間ですね(汗)
そして、V3の最終回…。
首領を倒した風見志郎は1人バイクを駆って、夕陽の中へ…

「目的を果たした改造人間・風見志郎は
今一人、何処ともなく去り行こうとしている。」
と、ナレーションは締めくくられます…。

少年は、仮面ライダーに憧れ、仮面ライダーを見て、少し大人になりました。

…仮面ライダー~…ありがとう。と言わずにいられません。

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| 1973年(昭和48年) | 21:03 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和46年]悪の秘密結社ショッカーを倒せ!!仮面ライダー!!

仮面ライダー1号2号

「ヒーローはお父さん!!」この響き…なんと親孝行な子供でしょう~。
しかし、こんな親の涙腺を緩ませる子供から
生身に備わる力ではなく、生身を越えた力の存在に
「ヒーロー」の座を奪われると、誰が想像したでしょう(汗)

1971年(昭和46年)4月。土曜19時30分から「仮面ライダー」放送開始。
1973年の2月まで、全98話を放送。2年の長きに渡り、当時の子供達を虜にしました。
五十前後の世代にとっては、小学生でまさにドンぴしゃ!!
ウルトラマンと並び、昭和の時代を代表するヒーローですね。

科学者であり、オートレーサーでもある一人の若者・本郷猛は、
悪の秘密結社・ショッカーに改造され、改造人間となります。
悪の組織に人間を凌駕する力を与えられながらも、脳手術を受ける寸前で脱出。
脱出を手助けしてくれた緑川博士の意志を継ぎ、
ショッカーに立ち向かう物語が「仮面ライダー」でした。

「改造人間」として、人類のために戦わなければならなくなった悲哀もまた、
脳天気に正義を語るヒーローとは違う魅力を持っていました。



仮面ライダーが持つ絶大な武器とは、ズバリ「殴る」「蹴る」です(汗)しかし…
殴る蹴るでは、生身の喧嘩で、当たり前のように使われていて、格好良くありません。
当時、子供の世界では、英語が徐々に浸透し始めていました。
「犬の事を英語でドックって言うんだぞ~」と誰かが言うと「へ~」と(笑)
一・二・三…をワン・ツー・スリー…と言えるだけで、ちょっと鼻高々です。
日本語を英語にすると、カッコイイと言う風潮が出てきた時代でしたね。

そこに、アニメ「キックの鬼」やプロレスのジャイアント馬場の「十六文キック」のように
キック・パンチが決め技になる事を知ると、
仮面ライダーの「殴る」「蹴る」が「ライダーキック」「ライダーパンチ」へ。
仮面ライダーを通して、「殴る」「蹴る」が必殺技になった瞬間でした。


子供の頃は良く「ライダーキック」「ライダーパンチ」と叫びながら、
友達を殴ったり蹴ったりしていましたよ(笑)あはは…
でも、それは一種のじゃれ合いであり、新たなスキンシップでもありました。

何よりも「殴る」「蹴る」をカッコウ良くしたのは、大野剣友会の殺陣でした。
チャンバラ・時代劇の一大殺陣集団こそ、仮面ライダーを支えた立役者かもしれません。
一見不釣り合いに思える歌舞伎の見栄や口上を取り入れて、
あの変身ポーズは生まれます。
溜めてパンチ!! ホーズを決めてキック!!
トーと叫んでジャンプ!!

アクションの切れの良さが、カッコイイ~に繋がりましたね。

「殴る」「蹴る」という、生身の当たり前の行為を、
英語にし、決め技にし、切れの良いアクションにした時、
仮面ライダーは、時代を代表するヒーローになったような気がします。

年末…「クリスマス」に「出し惜しみをせず」、「変身ベルト」をプレゼント!!
英語で、切れ良く、決め技…。
その時ばかりは、父親もヒーローに見えましたよ~(笑)

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| 1971年(昭和46年) | 16:26 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和56年]世界でもっとも愛されたプリンセス・ダイアナ。

ダイアナ妃

心の有り様をカタチにするのは難しい…。
描いた夢が、カタチになれば、こんな幸せな事はありません。
伝えたい想いをカタチで見せることが出来れば、説得力は倍増しますよね。

1957年。ポール・アンカ(Paul Anka)の歌う「ダイアナ」発売。
自分が生まれる前の曲ですが、お願い!!分かってよ!!僕は君が好きなんだ!!…
「Oh,please…Oh,please…Oh,please…」の歌詞が、やたら耳に残ります(汗)
アンカの実弟のベビーシッターに、片思いをして綴った歌がこの曲です。
発売後、いきなりビルボート1位で、彼は一躍、時の人となりました。
想いが歌と言うカタチになった時、アンカの想いは、
そのベビーシッターに伝わったのでしょうか?



ダイアナと言えば、私の年代で忘れ得ぬ人がいます。
1981年(昭和56年)7月29日、英国のチャールズ王太子と結婚したダイアナですね。
彼女は、1961年生まれ。まさにドンぴしゃ!!同級生ですよ(笑)

それまでの英国と言えば、大英帝国と呼ばれた威光は失われ、
国のムードは停滞していました。プリンセス・ダイアナの誕生はまさに光り…。
結婚式の様子は世界中のテレビで放映され、8億人の目が釘付けになりました。
一介のサラリーマンに過ぎなかった私と比べるのもはおこがましい…(汗)
彼女はプリンセス、輝きが全然違います(泣)
「世界で最も愛されたプリンセス」と呼ばれました。

しかし、結婚生活は長く続かず、1996年8月に離婚。
常軌を逸したパパラッチの目に晒されながら、
ゴシップ記事が、彼女を一人の人間にする事はありませんでした。
どんな思いで、何を信じていたのでしょう?

Only do what your heart tells you.
(自分の心が、語ることだけをしてください。)

彼女はこんな素敵な言葉を残しながら、
対人地雷廃止運動やエイズ啓発活動に関わっていきます。

1997年8月31日。フランスのパリで交通事故によりダイアナは急逝します。
36歳、あまりにも若く、短い生涯でした。
プリンセスとして生き、一人の人間として生き、
彼女はどんな想いを伝えたかったのだろう?
私のように一介の庶民として生まれた方が幸せだったのでしょうか?
今となっては、聞く術はありません。

離婚後、ダイアナは定冠詞のない「Princess of Wales(ウェールズ公妃)」
を名乗ることを許されました。
死の直前、ダイアナの名を冠した薔薇が献呈されます。
苗木の売上の一部が、肺病の患者とその研究に使われ、
アメリカでは、発展途上国の基金に使われていると言います。
想いはカタチとなり、多くの人を救っているんですね。

一介の庶民の私でも分かるカタチを見つけましたよ。
ダイアナを調べたくて、称号の「プリンセス・オブ・ウェールズ」で
Google画像検索をしてみました。

検索された画面には…薔薇…薔薇…薔薇…一面が薔薇…
「プリンセス・オブ・ウェールズ」と言う名の薔薇の中に、
ひっそり…ダイアナの画像が検索されます。
思わず…Oh,Daian…と呟いてしまいました。
こんな心やすまる画面を見たのは、久しぶりです。

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| 1981年(昭和56年) | 17:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[昭和47年]水平線の終わりには、何がある?「海のトリトン」

海のトリトン

子供の頃、夏休みになると、決まって午前中は、
アニメチャンネルとして称して、1時間半程アニメの再放送が流れていました。
何度も再放送されたのが、アニメ版「海のトリトン」です。

トリトンの眺めた海には、様々な試練がありましたね。
水平線の先には…海を脅かす悪のポセイドン族。
いろいろな人々と出逢い、別れ、悩みに葛藤しながら、少年は旅を続けます。
大西洋・北極海を舞台にした、冒険アニメの金字塔です。

原作は、あの手塚治虫さん。1969年(昭和44年)9月に連載開始。
本の後書きには、こんないきさつが書かれてありました。
「当時は「巨人の星」や劇画が全盛のころで、
新しい連載漫画も、それらの熱血・スポコン的なアクションを、
なるべく強く入れてほしいという要望がありました。
ぼくは、どうしてもそういうムードのものは苦手なのです。」と。

確かに海のトリトンが、熱血スポコンモノにならなくて良かったですよ。
苦手だったからこそ、名作として語り継がれることになかったのかもしれません。



1972年(昭和47年)4月、アニメ版「海のトリトン」放送開始。
キャラクターデザインは、あえて手塚治虫調にせず、
脚本内容は、漫画界の大御所、手塚治虫さんから大きく離れ、
「自分は原作者の立場でしかない」と言わしめた程です。

プロデューサーを務めた西崎義展さんは、テレビアニメの初プロデュース作品。
監督を務めた富野喜幸さんにとっても、初監督作品です。
監督が選択した物語のラストは、低学年の子供には、難解でした。
富野喜幸さん自身が「これはもう職権乱用です」と断言するほどの最終回です(汗)
異例づくめで始まったアニメ版「海のトリトン」は、
まさに大冒険の船出だったんですね。


…水平線の終わりには、虹の橋があるのだろう~♪

そして、水平線の終わりに待っていたものは…
小学生ではなく、中学生や高校生からの熱烈アピール。
今のアニメでは珍しくない、緑の髪のトリトンにファンクラブができる程でした。

何度も再放送された「海のトリトン」を見ていくうちに、
難解と思われたラストの意味が分かってきます。
悪だと思っていたポセイドン族は、実は犠牲者だったんです。
「俺が悪いんじゃない、ポセイドンが海の平和を乱すからだ!!」と叫んで、
その犠牲者を全滅させたトリトンは、大量虐殺の加害者なんですよね(汗)

そして、また少年は旅立つ…。


と、物語の最後は、このナレーションで締めくくられています。
えええ~何とも、ほろ苦い…。この感覚こそ、成長する少年期の余韻かもしれません。
少年は「また」旅立つんです…。「また」なんです。
何度も苦い経験を重ねて、人も作品も大きくなっていくんですね。

…誰も見ない未来の国を、少年は探し求める~♪
その後、西崎義展さんが求めたものは、「宇宙戦艦ヤマト」…。
富野喜幸さんは、名を富野由悠季に代え、
探し求めたものは、「機動戦士ガンダム」だったのでしょうか?

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| 1972年(昭和47年) | 17:15 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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